医療観察法.NET

精神保健福祉士の立場から

「寅さんを街に帰せ!」 心神喪失者等医療観察法から聴こえるこころのきしみ

野本千春(精神保健福祉士)
小規模通所授産施設 あゆみ舎(京都)施設長・精神医療ユーザー
2007年4月

1.フーテンの寅さん

ご存知の方も多い日本映画、「おとこはつらいよ」は1969年にスタートした。それは大阪万博を翌年に控え、日本の工業製品が「安かろう悪かろう」、とよばれた時代を終え、世界の舞台で評価を受け始めた時代だった。

「帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人よんでフーテンの寅と発します。」の口上を切るテキヤの寅さん。美人で賢い妹さくらは、タコ社長経営の小さな印刷工場で働く「真面目で勤勉」な労働者、博と結婚、豊かというにはまだ程遠いが、落ち着いた暮らしを営む。

その、寅さんとさくらの二人兄妹を育てたのは、やはり「善良な常識」が門前通りにだんご屋「とらや」を出しているような、おいちゃん、おばちゃん。そうした姿を御前様と呼ばれる老住職があたたかく見つめている。味のある寺男の源公含め、葛飾柴又舞台に、「善意」と「こつこつ」と「まじめ」と「常識」が織り成す一つの動かしがたい曼荼羅世界が構築され、そのなかにこれらの一人ひとりが安置されている。お天とうさんに恥じない、祝福された世界。この風景は、当時の多くの日本人にとって、希望的未来像を含む「こうあるべき当たり前の街の風景」を代表していたのだと思う。そして翌年の国家的事業、大阪万博(日本万国博覧会)のテーマは「人類の進歩と調和」だった。日本は敗戦のコンプレックスからこの「進歩と調和」で一挙に抜け出し国際的に認められようと目論んでいた。

その柴又の風景から若いとき、ふいっとどこかへと去った寅さんが69年に、ふいっと柴又に戻ってくるところから、全48作、27年に渡るロングランとなる「おとこはつらいよ」がスタートする。観客層数約8000万人。寅さんを演じた続けた天才、渥美清が肝癌で亡くなるまでシリーズは続いた。

なぜ、若き寅さんは「当たり前の街」を出て行ってしまったのだろう。設定は「とらや」5代目の父親とけんかをしてとのことだが、あまりはっきりしない。おいちゃんが言う「昔のあいつは手の付けられない野郎で」のセリフ位しか僕の知る手がかりは無い。

しかし、寅さんは戻ってきた。最初は大歓迎され受け容れられる。しかし、日を追うごとに「善意」「こつこつ」「真面目」な「おだやかな進歩と調和」の柴又の人たちの世界と寅さんの存在がきしみだす。寅さんだって真面目だ。善良で、心傷ついた人を癒す。寅さんなりの(マドンナとの幸せに向かっての)「進歩」と、「イヤー労働者諸君、今日も真面目に汗をかいているかね。」と街の住人の「進歩と調和」を祝福して、(自分勝手に)にこやかに声をかける。

しかし、きしみだす。どこからか、いつのまにか。そしてそれに気が付いた時、寅さんはさくら、おいちゃん、おばちゃん相手に啖呵を切るか、そっと黙してか、街を離れ旅の空の下へと出てゆく。

「フーテンの寅」・・・。「フーテン」。この言葉をワードは一発で変換してくれないが、漢字では瘋癲、である。ヤマイダレがついている。

2.寅さん不在の中で育つ

1959年生まれの僕の育った東京は郊外、つまり23区の外に出ると武蔵野の林がふんだんに残っていた。都心から1時間あまりも電車に乗れば清冽な渓谷と森の世界が残されていた。昭和33年の精神科特例以降、そんなところにも精神科病院が乱立しだす。そして、僕はヤマイダレのついた人たちと街で出会うことなく成長した。

そんな東京の工場の多い下町で育った僕は、「進歩と調和」という名の夢の息苦しさに、うなされ、何か奪われていて、それを取り戻したがっている、という渇きをおぼえていたように今、思う。それが何だかはっきりしなかった。ただ、渇き、求めながら、奪われ、遠ざけられ、タブーにされていると感じていた。そう、それにふれたらきしんでしまうから、タブーとされていたように思う。

寅さんはなぜ48作ものロングランとなったのだろう。山田洋二監督自身は一作だけ作って終わるつもりだった。

今、僕が思うのは、「善意」で「真面目」な8000万人の観客たちも、何かが失われていっている、誰か大切な人が身近から消えた、と感じながら、生活を送り、「おとこはつらいよ」はそうした人たちの喪失感、欠乏観を埋め続けていてくれたからではないかということである。

「寅がいると厄介ごとばかし起こしやがるけど、あいつがいないと何かさびしいなあ。今頃ぁ、あいつぁどこでなにしてやがんだろうなあ」とおいちゃんも毎回、「とらや」の居間でつぶやく。

そうしたおいちゃんのつぶやきから、「真面目で勤勉」を土台とする「進歩と調和」に対し、本人も善良さや真面目さ、愛情をもって人々とともに街で生きていこうとしても、そうとはなしに存在そのものが異議申し立てをしてしまうひとのこころのきしみが聞こえる。どうしてきしむのだろう。

 話がすっかり寅さんの話になった。映画「おとこはつらいよ」を観たことがないという人もいるだろう。ま、そういう人には申し訳ないけれどもこれまでの部分で何となく分かっておいてください。

 ここから、僕=精神保健福祉士・そのほかもろもろ、と心神喪失者等医療観察法の間柄にハナシを入らせていただきます。しかし、長いマクラになっちゃったな。

3.精神保健福祉士と医療観察法の間柄への皮肉をこめた批判

医療観察法が施行されて一年半が経過した。規模の大小は問わず、指定入院医療機関も次々各地に着工されている。厚労省・法務省予算を読むと、初期インフラ費用として考えても、異常に膨大な金が投入されている。

 この法律が出来たとき、「われわれ」精神保健福祉士は、これを評価した。僕は今のところ日本精神保健福祉士協会に所属していないが、協会は、確かに評価する声明を出した。   

しかし僕はひとりの精神保健福祉士として全く評価していない。一日も早い廃法を願い、廃法に向けて何をしたらよいかを考え、色々な立場の人たちと会い、議論と考察を重ねている。相対的改良主義者でなく絶対的廃止主義者である。

僕はなぜ、絶対廃止論をとるか。

結論を一言で言えばこの法律には戦争の臭いがするからであり、僕は14歳の娘がおり、彼女に外国の砂漠で自分の関係ない人間に機銃を向けさせたくは無いからだ。絶対に。

しかし何でそのような結論が僕の中で導き出されるのかをこれから説明していきたい。

この法律成立までには長い歴史の背景があったのだが、直接には池田小事件という悲惨な事件が切っ掛けとなった。その後の国会審議の過程は大まかに言えば「再犯のおそれ」→「リスクマネジメント」→「継続的かつ適切な医療の実施を確保するとともに、そのために必要な観察および指導を行うことによって、その病状の改善とこれに伴う同様の行為の再発の防止を図り、もって、社会復帰を促進する」・・・長いな、つまり「手厚い医療と社会復帰の促進」という風に文言の修正を重ねて、2003年7月に成立した。その過程を追うことは重要で、中山研一著「心神喪失者等医療観察法案の国会審議(成文堂2005年初版)」に詳しい。

この、「手厚い医療と社会復帰の促進」を「われわれ」精神保健福祉士は評価した。これによって貧弱であった日本の精神保健福祉の「底上げを図る」、と評価したのである。

 しかし、2006年4月より施行された障害者自立支援法が、障害者が自分の街で暮らしを続けていくことを困難とさせ、施設で暮らすことを選択せざるを得ない状況を「再び」生んでいる。また、自立支援法によって、国が福祉を地方に丸投げする形となったので地域間格差がより悲惨となった。この一年余りで多くの福祉施設が潰れた。この状況に対してはどう評価するのか。

「底上げ」どころか「地盤沈下」と評価することが正確ではないのか。

こうした状況に関し、協会は統一性のある、インパクトやビジョンを持った声明を出しているとは僕は思わない。

 以上から、僕の三段論法を展開すると「われわれ」精神保健福祉士は、医療観察法だけ評価して、自立支援法には無関心であれば良い、と考えていい、と言えることになる。

なぜなら、自立支援法条文中には現在のところ精神保健福祉士の何らかの役割(施設基準による配置等)は明記されていないからである。

 一方で医療観察法に於いては、「心神喪失者等医療観察法による地域処遇ガイドライン(法務省保護局 H18,2,26発行)」に目を通せばわかるように、精神保健参与員、社会復帰調整官は、精神保健福祉士として活動の法的根拠を与えられている。入院処遇でも地域処遇の場面内でも「精神保健福祉機関の云々」という文言が散りばめられているところから、取り様によっては精神保健福祉士の活躍が期待されている、とも考えてよいと思う。しかも自立支援法と違って国レベルでのテコ入れである。

 故に、既存の精神保健福祉機関で仕事をする精神保健福祉士は、自立支援法によって潰れていく施設職員は別として、従前からの精神保健福祉士法に則って業務を続け、医療観察法については、精神保健参与員と社会復帰調整官に協力をして、自己判断によるか、業務命令によるか、ケア会議で役割を与えられるか知らないが、対象者とのかかわりが生じた場合にのみ、精神保健福祉士としての「価値・技術・倫理」を発揮して活躍すればよい、ということになる。いや、ここだけは、皮肉な言い方をやめよう。対象者の立場に立てば、法が動いている限り、本当に頑張らなければならないと心底思っている。 

 しかしここまでは僕は自分自身も気分悪くなるくらい、「われわれ」精神保健福祉士のアティテュード(態度というか、向き合い方)について嫌味と皮肉をこめて書いたつもりだ。  

そしてこれは自分自身に向けても書いている。

4.では僕の立ち位置はどこにおくのか

では「われわれ」でなく個人としての精神保健福祉士・野本千春としてはどうなのよ、と。

僕はキリスト教神学を学んだあと、92年に精神科ソーシャルワーカーになった。それまでにいくつかの仕事を経験している。最初はワーカー独り職場だったので仕事のバックボーンを神学で学んだ方法論に置いていた面が強かったように思う。その後、社会福祉学科を出た後輩が入職し、その後輩のアティテュードから社会福祉学の方法論を学んだ。神学と社会福祉学との関係はもつれあった、興味深いもので、日本ではあまり取り上げられていないのが残念だが、ハナシが拡散してしまうのでそのことは取り上げない。

で、そうして日々、業務に追われるているうちに国家資格が出来た。目の前にいる患者さんとのやり取りの日々の中、不勉強の日々を重ねていた僕は不意を食らった。躊躇した。別にワーカーとして仕事をして行く上で特に必要とは思えなかったからである。しかし流された。現任者講習を受け「精神保健福祉士」となった。

武見太郎という人を、覚えている人がいるだろうか。かつて日本医師会長を長く務めた人物で、僕の少年時代の記憶では、よく物議をかもす発言をしていた。「宇都宮病院」事件より前の話である。武見氏は「精神医療は牧畜業」と発言し、またぞろ物議をかもした。その前後の文脈、顛末については僕も記憶には無いが、この言葉はずっと、僕の心の底に沈んで在った。そして、僕にとっての精神保健福祉士取る取らない問題の中で、「精神医療は牧畜業」の文言が記憶の底から浮上した。僕は「精神保健福祉士」という国家資格をこう理解した。武見氏の言葉を借りて「精神医療は牧畜業」だとするならば、精神科ベッド数が33万床オーバーに膨れ上がり、国際世論の批判を受けた国は「放牧」施策に打って出たのだ。精神保健法時代から仕組まれたこの施策には「カウボーイ(カウガール)」の存在が必要になってくる。そのシステム(「放牧」)は従前の収容システムより低コストだ。映画で出てくるカウボーイは実際は英語圏の人間は少なく、スペイン・イタリア、ハワイなど経済事情が悪い地域から北米への出稼ぎ者が多かったと聞く。

とまれ、国会で、精神病床数減少をめぐって、議員から「蛇を公園に野放しにするようなものだ」との発言が出ていた時代、精神保健法で方向付けられた地域保健福祉システムとは、同時に「精神病者」地域管理システムで無ければならなかった。

このように、資格受験に躊躇していた僕は理解した。しかし踏みとどまる足がかりを持たず、流されるように受験し有資格者となり現在に至る。

先ほど、僕は「われわれ」精神保健福祉士、についての医療観察法に対するアティテュードのナイーヴさに対し皮肉をこめて批判した。しかし、今述べた「流され取得した有資格者・精神保健福祉士、野本」については、僕自身の展開した理屈で行くと、当然、「地域管理システム」の一要員である。それが僕の立ち位置だ。この事実を僕の中で今でも合理化はしない。僕が精神保健福祉士であることは宙ぶらりんを続けることだ。  

5.一人の精神障害者として

それとは別な、僕のもろもろのひとつに、この10年余り精神医療ユーザーとしての面がある。「重度かつ継続」で自立支援医療を受けている。入院もする。余談だが一昨年、入院して音楽を聴いていたら、一人の女性から一緒に聴いていいかと、声をかけられ、どうぞ、と一緒に僕が持ち込んだ音楽を聴いた。そして、彼女が「お仕事は何かされてるんですか?」と問うので「精神保健福祉士です」と答えると、間髪入れず「それ(精神科への入院)は勉強になるでしょう」と言われた。(「さすがよく分かってらっしゃる」と)思わず我がひざを打った。もうひとつ付け加えるなら、僕がこの3年、3度入院した病院は閉鎖病棟になってしまった。強化ガラスと二重のドアロック。厳冬の中、スチームがよく効く病室のベッドに寝転びながら思った。何か突拍子も無い「有事」が発生したら、二重のドアロックはきちんと開錠するのだろうか?施錠されたままスチームが切れてしまったら・・・? 考えすぎといわれるだろう。しかし・・・怖い。

では宙ぶらりんまま、精神保健福祉士という立ち位置に立って(理屈では宙ぶらりんのところには立てないんだけど。)、僕は医療観察法にどう向き合うか。

6.ふたたび医療観察法を論ずる

医療観察法の運用上の矛盾や問題点はいろいろな人が分析、指摘している。しかしそれらは、法の運用が進み、事例を重ねるとともに洗練され解決され、違う形態に変化してゆく可能性が高い。僕はそういう現在の医療観察法運用上発生している問題点を論点とすることは今回避ける。どんな運用をされようと許せない物は許せない、という論点を中心にする。

 では、何が許せないのか?医療観察法が、国会審議の中で「予測不可能」とされたの

で、傷害事件を起こした精神障害者本人サイドに立っているかのように見せかけながら、 文言に修正をいくら重ねても、社会防衛サイドに立っていること、正確に言えば「再犯のおそれ」に対する保安処分であることは、お天とうさんも、「背中の桜吹雪」もお見通しのように明らかだからである。

 保安処分とは将来(再び)何かをしでかしそうなものを、その可能性においてその自由権を奪うものであるが、その意味において医療観察法を保安処分だと断定する、と、ゆえなく精神障害者は「真面目で勤勉な」社会にとって障害、あるいは将来にわたって反社会的存在と断定されており、社会の構成員として差別されていることが明白である。差別とはゆえ無きものである。「美しい」「品格ある」国家にとっても障害となる、もサービスで加えよう。

 医療観察法が示していることは、精神障害者は危険だ、という一言に尽きる。

そして、僕はそのような医療観察法から冤罪が生まれることを心から恐れる。明治時代に生まれた監獄法が一昨年にも大きく変わらなかったことなど考えると、日本の起訴・拘留・裁判システムが変わらなければ、冤罪は生まれる、と恐れる。

一人でも冤罪者を生めば、われわれ、医療観察法を支援している精神保健福祉士はその共犯者になることを覚悟してのぞまなければ成らない。

それでも、「底上げ」とか言って喜んで観察法がもっと順調に進むことを選ぶのだろうか。

7.国家犯罪の「再犯予測」

では、今度は逆の視点で、保安処分としての医療観察法を水の底から眺めるようにして、そのようなシステムを持ちたがる国について考えてみよう。そうした国・社会が「ふたたび犯しかねない」事柄がある。戦争である。保安処分システムは治安維持システムへの転化が容易である。国が臨戦状態になったら、戦争を遂行するのに邪魔になる者を収監でき、より戦争に集中できる。第二次世界大戦前後には数知れない精神障害者が施設内で餓死していることを忘れてはならない。

 日本は戦後60年、平和であったという。しかし、今はどうのなのだろう。イラク特措法は戦後史の分水嶺になったと思う。その前後の徐々に煽られているナショナリズムの高揚。防衛力はもはや防衛に必要な戦闘力をオーバーし、防衛庁から防衛省への格上げ。破防法から共謀法への展開。ここまで考えてみると今「再犯の怖れ」のあるのは、私自身を含む、われわれが日常お付き合いをしている精神障害者のほうなのか?それとも・・・。

 「正しい日本の歴史」を好む方がこの10年ほど増えた。その方々にお聞きしたいものだ。「日本の歴史」上、侵略を受けたことと侵略したことのどちらが多いのか。

 考えてみてください。寅さんが寅さんらしく自由闊達に安住できる街が日本中にあったとしたら、そんな状態で国は臨戦態勢をひけますか?寅さんは一元主義、全体主義には馴染まない。

 大阪万博も国家の展望とこれからコンプレックスを払拭すべく、威信をかけてのプロジェクトだった。

 その中で生まれ育っていった「おとこはつらいよ」シリーズは、「真面目で勤勉、こつこつ、善意」への傾きに留保をかける。きしみの音をたてる。

心神喪失者等医療観察法。そこに献身する精神保健福祉士の善意と情熱、努力を僕は疑わない。ただ、そこから「底上げ」を信じるのはナイーヴ過ぎないか。「地域処遇」精神保健福祉士としてのもてる技量をふんだんに用いて、精神保健福祉の全体状況が「地盤沈下」して行くことには目をつぶっていたらよいのか。

葛飾柴又の人たちの「善意」。寅さんはそこに迎えられ、マドンナとの出会いもあり、今度こそ柴又に腰を落ち着けて、愛する妹さくらの誇りになる兄になることを目指す。

「当事者」は精神保健福祉士の「善意」「情熱」「献身的努力」に、お付き合いしてくれている、許してくれている。そうするしか生き抜く手立てがないから。僕も「それはいい勉強になるでしょう」といわれたことは先に述べた。

8.こうして医療観察法を不要にしよう

しかし、このままソーシャルワークの可能性としての精神保健福祉士の活動は、医療観察法という国の制度の充足へと狭められていてよいのか。

何故、われわれは、刑務所、拘置所など司法施設へと入って行き、そこでこそ求められている社会復帰活動が展開できるよう国に働きかけてこなかったのだろう

そのような活動が活性化していたら、医療観察法は不要ではないのか。それこそソーシャルワーカーの真の腕の見せ所ではないのか。

 僕は医療観察法を司法による精神保健福祉への不当な介入されたものとして見ている。、正当な介入がされるべきは精神科特例の廃止なのだ。精神科特例には本来的に存在根拠が無い。あるのは、精神障害者に対する差別による隔離収容を国家が施策として選択したのだ。それを、かつて前述の武見太郎氏は指摘した。

日本が「(日本にとって都合のよい)人類」の「進歩と調和」を採って、そこで切り捨てられたもの。

「フーテンの寅」・・・。「瘋癲」。戦後、一体何百万人の「ヤマイダレ」の人たちがゆえなく隔離収容された中で死んでいっただろう。それは薬害エイズ、ハンセン病者隔離収容施策と並ぶ戦後の国家犯罪と考える。その点で国はまだ犯罪遂行中なのである。このことを訴え続け、犯罪を停止させることはソーシャルワーカーとしての精神保健福祉士の役目として矛盾はないと思い、訴え続けたい。

9.やっぱり〆を寅さんで

 あんまり考えて肩が詰ったら寅さんを見よう。傷つきやすい寅さんが、きしんで、去ってしまう寅さんがほっこりと、馴染むことのできる街の景色を空想してみよう。そこで暮らす人たちを想像してみよう。そして僕たちはそこから何が出来るか想像してみよう。

寅さんを、さくらも、おいちゃんも、おばちゃんも、御前様も理解していない。今年「武士の一文」を世に出した山田洋二監督さえも理解していない。みんな「善意」「努力」「こつこつ」に基づいた、愛情を持って、寅さんを迎えようとする。寅さんも応えようとする。しかし、きしみを感じた寅さんが、葛飾柴又を去っていってしまうのは、それらがどれほどに傷つけることがあるのか、いたたまれなくなることがあるのか、を示しているからだと思う。    

善意も真面目も、美意識も良識さえもが意図せずに壊してしまう繊細さ。耳を立ててようよう聞こえるきしみ。それに気付き、耳を傾けるのは本当に難しいからだ。

最後に27年、48回、映画館のスピーカーから流された「おとこはつらいよ」の主題歌を聞いてください。

「どうせ おいらは ヤクザな兄貴 分かっちゃいるんだ妹よ いつかお前の喜ぶような 偉い兄貴になりたくて 奮闘努力の甲斐も無く 今日も涙の 涙の 陽が落ちる 陽が落ちる」。

寅さん、それで良いじゃないか。僕らは寅さんが必要なんだよ。帰ってきて一緒に暮らそう。

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