医療観察法.NET

弁護士の立場から

あるべき姿―精神科医療改革として

八尋光秀(弁護士)
2006年3月

誤った社会認識の形成

私たちの社会は、精神科医療のユーザーを、長期にわたって隔離収容することにより見せかけの安定を保ってきた。隔離患者の実数は、絶対数でも人口比でも、世界最大の規模に膨れ上がり、弥縫策ではどうしようもないところまで来てしまった。

精神病院は、過密でストレスの多い環境下に長期に及んで患者を収容する。そのため、患者間あるいは患者と医師・看護師との間にトラブルが絶えない。そこで更なる患者の排除と隔離が要請されもする。ほとんどの精神科医療スタッフは、こぞって精神病院という隔離施設に従事し、病院という隔離施設に縛り付けられている。そのため私たちの町のなかでは精神科医療の有能な人材が決定的に不足する。ほかの診療科のように、町の中で気安く診察や治療を受けられる状況にない。こんなとんでもないことを何十年と続けてきた。このような私たちの町が、精神科ユーザーに町の中での適切な医療を提供することなく、いつも町から遠く離れた隔離施設に追い立てた。法律も政策もそれを推進した。私たちはいつの間にか精神科医療ユーザーを「精神障害者」として、恐れ、疎んじ、馬鹿にし、社会にはいらない者としてきた。

患者隔離を進める法律と政策は、患者の人生そのものを奪うだけではない。怖い、恐ろしい、役に立たない、迷惑だ、といった患者への誤った社会認識を作り出し、助長する。このことは、ハンセン訴訟において国もまた確認したはずのことである。

患者隔離を全廃して

どんな病気であっても町の中で気安く必要な治療が受けられる。入院すれば安心して療養に専念できる。それらはいずれも私たちの社会にとって必要不可欠なシステムである。精神科医療であってもひとしく同じでなければならない。にもかかわらず、精神科医療は患者の排除と隔離を求め続けてきた。改めるべきは、このような精神科医療の法と政策の誤りであって、患者隔離の強化ではない。これまでの精神科医療における患者隔離を反省し、精神科医療ユーザーに謝罪し、精神科医療に特有の患者隔離の法と政策をすべて廃止し、その人間回復と、医療改革をなすべきである。そのうえで必要であれば、精神科疾患に限らず、すべての人間を対象とした、犯罪防止、再犯抑止の方策を考えるべきである。

地域の中でひとしく人生を

患者は社会のなかで地域のなかで守られなければならない。だから、医療は社会のなかで地域のなかで提供しなければならない。精神科医療も同じである。患者隔離は患者が地域の中で人生をいとなむことを奪うものである。社会のなかで、地域のなかで、学び、育ち、仕事を得て、慈しみ、愛し合い、助け合う。家族とともに、友人を作り、家庭をもち、子供を育てる。人間のすべては社会にあり、地域にある。いかなる理由によろうとも患者隔離は許されるものではない。患者隔離法は人間のその喜びも悲しみもその一切を奪う。

精神科医療を医療として

医療はそれを必要とする患者のためだけになされなければならない。患者には個性があり、その個性に応じて医療は組み立てなければならない。その組み立ては、目の前の患者にとって最善のものでなければならない。なにより患者が望むものとして誂えることである。患者隔離法は、患者のための医療を提供することはない。その患者以外の人々のために提供するものである。本来、患者のためではなく、それ以外の人のためにする医療などありはしない。患者隔離法は医療サービスではなく、人間の隔離を本質とするものである。

「らい予防法」の過ちを繰り返すな

これらのことは「らい予防法」の誤りにおいて明らかにしてきたことであるし、日本の精神科医療政策の50年を振り返り、その結果としての現状を概観すれば一目瞭然である。人口比でも絶対数でも世界最大の患者収容国。日本は、精神科ユーザーのためではなく、そのほかの人々のために患者を収容してきたし、現に収容している。その過ちの年数が世界最大の患者収容国として表現されてもいる。

一時的に自分らしい判断ができなくなることは誰にでもある。それは精神科に限ったことではない。整形外科、内科、小児科、産科、そのほかすべての領域にまたがって存在する。当然のことながら精神科のユーザーがすべてそうなのではない。自分らしい判断ができないときにどうすればよいか、精神科に限らずに、医療全体を横断的に整理することができるし、しなければならない。

医療観察法の問題点

それでは、西鉄バスジャック事件、大阪池田小学校児童殺傷事件などを受けて制定された医療観察法が進もうとしている道は、このような方向に合致しているだろうか。

制定・公布・施行

医療観察法は正式には「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」と称する。2003年7月10日成立し、同月16日に平成15年法律第110号として公布された。法案の国会上程は2002年3月であった。この間1年4ヶ月の期間を経たにもかかわらず、残念ながら実り多き国会審議とはならなかった。2005年7月15日、施設整備など不全のまま、政府は法律の施行を強行した。

法律の目的

立法者によれば、本法の目的は「心神喪失等の状態で重大な他害行為をおこなった者については、国の責任において手厚い専門的な医療を統一的に行い、また、継続的かつ適切な医療を確保するための仕組みを整備すること等により、その円滑な社会復帰を促進すること」にあり、「そのための新たな処遇制度を創設する」ことが特に必要であった、とする(ジュリスト増刊号『精神医療と心神喪失者等医療観察法』13頁(白木功)2004年)。あたかも対象者の保護を前面に押し出したものとなっている。

対象者

法は「この法律は、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行ったもの」(1条)であって、心神喪失等により公訴を提起せず、または、無罪、減刑を受け、執行すべき刑期がないものに適用する(2条3項)とし、その重大な他害行為とは、殺人、放火、強盗、強姦、強制わいせつ及び傷害にあたる行為とする(2条2項)。

しかし、もともと他害行為はすべて重大である。重大ではない他害行為などありえない。しかも、ここに列挙する他害行為の種類は、社会の中で現に生ずる犯罪のうち純然たる財産犯と人を傷つけることのない暴行を除いたほとんどすべてを含む。「重大な他害行為」というカテゴリーは実際、なんらの限定をなさない野放図なものとして機能しうる。

立法者はここでも「心神喪失又は心神耗弱の状態で重大な他害行為を行った者は、いわば二重のハンディー・キャップを背負っているものであり、このような者については、国の責任において手厚い専門的な医療を統一的に行い、また、退院後の継続的な医療を確保するための仕組みを整備すること等により、その円滑な社会復帰を促進することが特に必要である」と対象者への保護を強調する(前同14頁)。

問題はその強制的な施設への収容、患者の隔離、その後の強制処分のあり方であり、対象者、要件、処分の中身、期間、運営主体、医療水準、体制の確立などである。

さらに、法は「対象者の鑑定」を定め、対象者が「精神障害者であるか否か及び対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様の行為を行うことなく、社会に復帰することを促進するためにこの法律による医療を受けさせる必要があるか否か」精神科医に鑑定をさせる、としている(37条1項)。

この規定は、心神喪失、心神耗弱をもたらした原因のうちから、とくに精神科疾患としての「精神障害」を取り出した。そのうえ「精神障害」と現に行われた「重大な他害行為」とが他の諸事情と異なり固有な関連性を持つこと、さらには「精神障害」の改善と「重大な他害行為」の反復とが原因と結果の関係にあることを前提としている。

しかし、「精神障害」と「重大な他害行為」との固有の関連性に関する確立した医学的知見はないし、さらには反復されるとする「重大な他害行為」の将来予測の可能性は犯罪一般では30パーセントを超えることはない。

この点、法務省自身が精神障害と犯罪との固有の関連性は明らかとはいえない、精神障害者の犯罪率、再犯率が一般と比べて高いとはいえないと認めさえしている。

何度も繰り返さなければならないが、殺人や戦争に向かう人間の「狂気」は精神科治療の対象となる「精神障害」とは全く異なるものである。

手続き

審判の手続きは、1人又は3人の裁判官に精神保健審判員という精神科医を加えて(6、7条)、さらには精神科医による鑑定を得て、対象者を「精神障害者」として強制収容し隔離治療をすることの当否を判断する。対象者とされるものには刑事被告人としての地位は認められておらず、精神保健審判員や鑑定人の精神科的判断の当否について争う有効な手段も準備されていない。

立法者はこの審判を「固有の司法権の作用、すなわち裁判所が当事者の意思にかかわらず終局的に事実を確定し当事者の主張する権利義務の存否を確定することを目的とする純然たる訴訟事件についての裁判ではない」とするようである。

その理由は、第1に、本法は対象者への治療と社会復帰への手助けを定めたものであり、主として対象者の利益を提供するものである。第2に審判は精神科医療という高度の専門性が要求されることから裁判官のみによる司法判断にはなじまない、ということであろう。

しかし、この審判による入院決定は、対象者に対して、入院時における強制収容とともに、退院命令が出されるまでのあいだ強制隔離施設内にとどまることを受任すべき義務のあることを確定するのであって、明らかに固有の司法権の作用のひとつといいうる。

仮にそうでないとしても、対象者に医療隔離と医療危害を強いるものである。すなわち、対象者の意思に反して、期限を定めずに対象者を強制収容し、隔離施設の中に閉じ込めて治療をするという権力行使を行うものである。そうであれば、その形式はともかく、実質的には医療的な正当性だけではなく刑事裁判と同等の手続き保障がなされなければならない。

いずれにせよ司法がその固有の役割を放棄してよいものではない。

さらに、固有の司法権の発動にあって、専門的知識を必要不可欠とすることはいくらでもある。そのたびに、専門的知識を有するものを裁判の合議体に入れて、その判断を鵜呑みにしてよいということにはならない。提示された専門的知識の相当性が判断の核心である。そうであればあるほど、判断の客観性を保つために、その専門家を合議体の中に入れることは許されない。

審判は、固有の司法権の発動としての司法的正義ともに、精神科医療における強制的な収容処遇としての正当性が、実質的にも、手続的にも二重に保障されるものでなければならない。

立法者は裁判所において対象者の「防御権にも配慮」し、あるいは「精神保健審判員による医療的な判断に併せて裁判官による法的な判断」を行えば足りると説明する。しかし、人生そのものを奪いかねない人権の制約を伴う本法にあっては、不十分な手続を複数併せたからといって、不十分な手続が十分な手続となることはない。裁判官に判断できないことを精神科医の判断に任せ、精神科医に判断できないことを裁判官が判断すれば、その司法的正義や正当性が保たれるかというと、決してそうではない。司法権の発動としても、医療上の強制処置としても、それぞれ十分な適正手続が二重にも三重にも保障されなければならない。

入院命令の要件

法は強制的な入院・通院命令の要件を「対象行為を行った際の精神障害を改善し、これに伴って同様の行為を行うことなく、社会復帰することを促進するため、この法律による医療を受けさせる必要があると認める場合」と定める(42条)。さらに法は、この要件の判断を精神科医の鑑定に委ねることとし(37条1項)、その際に考慮すべきこととして「精神障害の類型、過去の病歴、現在及び対象行為を行った当時の病状、治療状況、病状及び治療状況から予測される将来の症状、対象行為の内容、過去の他害行為の有無並びに当該対象者の性格」の各項目を挙げる(37条2項)。

まずもってこのような判断を正確になしうる精神科医は世界中探しても誰一人としていない。声高に再犯予測が可能だと主張するものでさえ、高い類型で6割、一般にはせいぜい3割の正答率にとどまる。法務省ですら、精神障害者の再犯予測は困難な問題があると認めてもいる。

この判断は、刑事裁判における情状酌量の判断と同視してはならない。まさに強制隔離の開始と継続の要件であり、この判断によって、患者に対して人生を根こそぎ奪う終生隔離を強いることにもなる。刑事裁判で言えば、罪体そのものの判断に価する。

日本の精神科医療は、EBM(証拠の基づく医療)がなく、確実性がなく、不測の過ちは多くをはらむ。患者を治せないだけではなく、診断も治療法も統一していない。同じ患者を診ても、病名はばらばら、治療方針だけではなく、投薬する薬剤名もその量もまたまちまちといった有様である。

では裁判官はどうか。この要件について裁判官が無力であることはこの法律自身が認めている。精神保健審判員による審判を求めたのはそのためだ。ところが肝心の精神科医療の水準も精神保健審判員の能力もこれに適うものではない。

本法は、7割からの誤判の危険をあらかじめ折り込んだ無期限の患者収容、強制隔離を命じる法律である。 

備えるべき正当性の2つの側面

この法律は、行った「重大な他害行為」ゆえに強制収容を認め、「精神障害」ゆえに無期限の強制隔離を認める。対象者の受忍義務を確定させる審判であるから、刑事司法権の発動と同じ実質を持つ。この意味で刑事処分に限りなく相似する不利益処分としての正当性が保障されなければならない。そのうえ、強制隔離下において「改善」するまで治療を処分として行うことから、精神科医療政策としての強制隔離、患者隔離の正当性が満たされなければならない。しかし、本法は刑事司法としての正当性も精神科医療としての正当性をも欠いたものである。

刑事司法としての正当性の欠落

あらゆる憲法上の原則が、踏みにじられている。それは、対象者の裁判を受ける権利の剥奪であり、特別裁判所による差別的な裁判の実施である。弁護権の保障を欠き、弁護人との秘密交通権、自白の補強法則、伝聞証拠排除の原則など、いずれも守られてはいない。訴訟能力がなくても手続は進行する。ひとりの人間として、裁判の主体として活動しうる地位を認めていない。少年審判で許されているから、この法律も許されるともいうが、少年審判のありかたこそ問題であると言えても、それを正当性の根拠とすることはできない。

精神科医療政策としての正当性の欠落

精神科特有の強制入院を正当化しうる根拠はない。一時的に判断能力を失った場合における法的問題と精神科医療とは異なる。精神科医寮が必要な場合は判断能力を失ったときではない。判断能力を失った場合とは精神科医療を要する時に限るわけではない。正しく、判断能力を失った場合の同意という法的問題として、精神科医療を必要とする場合とは分けて整理されなければならない。

その意味で、現行の精神保健福祉法にある、措置入院、医療保護入院などの制度はすでに憲法上の疑義を持つものである。適正手続保障を欠く措置入院の違憲性はすでに明らかであるが、かつての同意入院を引き継いだ医療保護入院もまた違憲性が問題である。精神科医療であるから医療適応性と保護者の同意があれば強制入院は正当性を与えられるかというとそうではない。ありうるとしても、すべての診療科に共通するものとしての判断能力の欠如と適正な代諾そのうえでの医療適応性の確保なくして、医療のための強制収容は許されない。現実にもたらされた精神科医療における強制入院の膨大さと劣悪な入院環境がその違憲性を明白に証明している。

欧米先進国の誤りを習いとする誤り

立法者は欧米先進国がこぞって同様の制度を持つことを正当化の根拠ともする。しかし、まずは、それらの国における、精神科医療をめぐる法律と政策ならびに現実の精神医療の状況、さらには刑事の法律と政策ならびに刑事事犯の現状などをつぶさに検討する必要がある。そのような検討をすることもなく、欧米先進国がしている事だからから良い事だというわけにはいかない。欧米先進国もまたその誤りに気づき正す時期に来ているのである。

まとめ 誤った社会認識の是正

人間には普遍的な価値がある。それはどのような状況にあろうとも守られなければならない価値である。この価値を制約するルールもまた普遍性のあるものでなければならない。「精神障害者」にだけ適用されるルールであってはならない。精神科にだけ適用される患者隔離、強制収容などあってはならない。犯罪や戦争に向かう人間の「狂気」と精神科の治療対象となる「精神障害」とは本質を異にする。犯罪や戦争に向かう人間の「狂気」はすべての人間に潜むものだ。だから犯罪の予防、再犯の抑止はすべての人にひとしく妥当する方法でなされなければならない。打開策を見いだせない問題の回答を、未解明な精神科医療に委ねるのは誤りである。社会不安は時代の失政がもたらす。社会不安は往々にして人権侵害の大きな流れを作り出す。社会不安がいかに大きいものであっても、いやだからこそ、より冷静に、その対策を講じなければならない。誤解のうえに誤りを重ねてはならない。

健全な医療としての精神科医療をめざし、精神科ユーザーに対する誤った社会認識を是正することから始めよう。さらには殺人や戦争に向かう人間の「狂気」を解明し、これにどのように対処するのかをこそ策定しなければならない。


出典:八尋光秀「医療観察法と精神医療」
「市民」と刑事法(日本評論社、2006)189-198頁

 

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