医療観察法.NET

刑事責任能力判断の新たな動向

岡江晃(精神科医)
2008年2月
(社)日本精神神経科診療所協会の許可を得て講演録を転載

 

初めまして。紹介いただきました京都府立洛南病院の院長をしています岡江といいます。
 最初自己紹介を兼ねて何点か話しておきたいと思います。私は1971年に大学を卒業しまして、1972年から今の洛南病院にほぼずっと勤めています。途中の数年間京大病院にいたことがありますが、ほとんど洛南病院にいます。そういう経歴なので、特に司法精神医学について詳しいわけでも何でもありません。ただ洛南病院は京都府立ですから措置入院があったりしました。
 私は若いときにかなり長い間、男性の入院病棟の担当医をしたことがあり、犯罪歴のある人だとか、覚せい剤精神病の人を多く診てきました。それが一つです。それに加えて当時洛南病院には、よく名前の知られていた小澤勲先生など何人かの先輩の先生方がいらっしゃいました。よく勉強会をしました。その勉強会で精神鑑定や刑事責任能力についての読書会もあり、それらを巡って議論になることもよくありました。今から30年以上前の勉強会のときですが、私の3年先輩である高橋勝貞先生が、刑法39条いわゆる責任無能力、心神喪失はもう廃止したほうがいいんじゃないかと言われました。精神科臨床から見たら、そういう見方もあるのかと強い印象を抱いたものです。そういう環境でしたので若いときから精神鑑定についてはかなり関心を持っていたのです。
 私が精神鑑定をするようになったのは、まだ最近のことです。1993年ころが、第1例だったと思います。今までの15〜16年の間に、本を読みながら、そして先輩に教えてもらいながら、手探りで精神鑑定してきました。その中でいろいろ考えることがありましたので、それを今日まとめてお話しをしたいと思っています。

 

I.昭和59年最高裁決定

昭和59年に最高裁決定が出され、これが責任能力判断の大きな分岐点になったといわれています。この決定の評価はいろいろあり、特殊な事例にすぎないと考えている先生達もいるようです。しかし私は大きな流れで見れば、この最高裁決定は日本の刑事責任能力をかなり大きく一歩進めた、一歩変えた、転換となったと思っています。先ほど言いましたように、私が精神鑑定するようになったのはこの決定よりもずっと後のことです。まずこの最高裁決定の事例について少し紹介しておきます。
 昭和44年に起こった非常に重大な事件でした。裁判の確定まで、最高裁まで行き差し戻され、また最高裁に行きますから約15年間かかったのです。統合失調症の人が、恋愛妄想の対象になった女性の家を襲って、5人殺害、2人重傷という事件です。5人の中に2人の幼い子供達が含まれています。恋愛妄想の対象の女性は殺されてはいません。その方のお姉さんの子供さんとか、偶然にその場に出てきた隣家の人が殺されています。事前に襲うために鉄パイプか何かを準備して行ったのです。計画性があるということがあとあとまで裁判で問題にされるのです。
 まず地裁のときの1回目の精神鑑定は「破瓜型の欠陥状態」、しかし計画性があったという結果でした。地裁は完全責任能力、死刑の判決となりました。高裁では控訴棄却、つまり死刑がそのまま維持されました。この高裁でも2回目の精神鑑定がなされ、結果は「恋愛妄想、被害妄想」「人格水準低下」でした。最高裁に上告されましたが、最高裁は完全責任能力には疑問があるということで差し戻しになったのです。この最高裁での精神鑑定では「緊張病」、計画性と衝動性の混在などの結果が出されています。高裁に差し戻され、無期懲役という判決になりました。差し戻しの高裁での精神鑑定では、「幻聴、恋愛妄想」、怨恨感情などの結果が出されました。再度最高裁に行くのですが、結局棄却、つまり無期懲役が確定した事例です。再度の最高裁での精神鑑定では「非定型精神病、緊張病」という結果でした。
 つまり5回の裁判と5回の精神鑑定がされました。いずれの精神鑑定でも診断はすべて同じ統合失調症でした。ただ破瓜型、緊張病などの違いも見られ、欠陥状態、人格水準の低下を重視するような鑑定もありました。欠陥状態、人格水準の低下があっても、裁判では完全責任能力と判断したのです。後になり緊張病、幻聴などが指摘されて限定責任能力となったようです。
 私は法律に詳しいわけじゃないですが、この最高裁決定の中にいくつかの特徴があるようです。一つは、心神喪失、心神耗弱というのは法律判断であって裁判官が決めるものだという当たり前といえば当たり前のことが書かれています。二つは、ここが非常に分かりにくいのですが、生物学的要素つまり精神医学的診断、心理学的要素つまり善悪の判断やそれに基づいて行為を制御する能力の判断は、その両方とも究極的には裁判所の評価であるとしています。三つは、これがその後相当大きな影響を与えるのですが、責任能力の有無とその程度は、犯行当時の病状、犯行前の生活状態、犯行の動機、犯行の態様などを総合して判断するとしたことです。つまり統合失調症と診断するだけでは駄目だとなったのです。このことは後に触れることになると思います。

 

II.刑事精神鑑定の現状

次に刑事精神鑑定がどうなっているのかを話したいと思います。古い時代のことも調べれば分かったのでしょうが、なかなか資料が手に入らなかったので、大ざっぱなところだけをお伝えします。犯罪白書から作りました

図1 犯罪白書より
 
裁判
検察・不起訴
 
心神喪失
心神耗弱
心神喪失
心神耗弱
昭和46年(71年)
30
166
392
  47年(72年)
24
143
423
  48年(73年)
19
108
411
  49年(74年)
27
・・
437
         
昭和63年(88年)
6
62
414
324
平成 1年(89年)
9
63
397
329
   2年(90年)
4
79
421
355
 
平成13年(01年)
1
83
340
270
  14年(02年)
1
69
360
304
  15年(03年)
3
86
324
280
  16年(04年)
7
81
324
237
  17年(05年)
1
65
370
375

 

図1をご覧になっていただければ、もう一目瞭然で状況が変わったことが分かります。1970年代前半の裁判判決では、心神喪失が年間20人から30人くらいはいました。昭和59年、1984年に最高裁判決が出されます。1980年代後半は年間10人以下になり、さらに2000年代に入りますと年間1人という年も少なくなくなりました。心神耗弱も半減していますが、それでも年間60人から80人と相当数あります。つまり心神喪失が激減しています。

図2 犯罪白書よりー統合失調症ー
  裁判 検察・不起訴
 
心神喪失
心神耗弱
心神喪失
心神耗弱
平成元年〜平成5年の累計        
(5年間)
15
76
1388
992
         
平成6年〜平成10年の累計        
(5年間)
9
98
1323
834
         
平成13年(01年)
0
24
230
173
  14年(02年)
1
21
258
185
  15年(03年)
2
23
225
148
  16年(04年)
6
24
234
138
  17年(05年)
0
23
265
227

 

図の右側には検察官による不起訴と起訴猶予の数字をあげています。裁判とは異なって、30年前と最近とを比較しても、心神喪失も心神耗弱も顕著な変化は見られません。しかも心神喪失と心神耗弱はほぼ同じ数となっています。検察官の起訴不起訴の判断を見る限り、最高裁決定の影響があったのか否かははっきりしないようです。
 次に犯罪白書で統合失調症だけの人数も拾うことができますので、図2で紹介しておきます。1970年代の資料はすぐには見つけることができませんでしたが、1990年代以降は裁判で心神喪失になる統合失調症は年間数例でありゼロの年も少なくないことがわかります。検察官の起訴不起訴の判断は、統合失調症では心神喪失が心神耗弱より多いという傾向があるようです。
 つまり裁判を見れば、この20年30年のうちに刑事責任能力の判断の流れが相当に大きく変わってきたことがわかると思います。
 次に図3です。

図3 簡易鑑定(平田ら)
2000年 簡易鑑定 2,042件    
・鑑定医   全例 精神病圏
  完全責任能力
約50%
約12%
  限定責任能力
約25%
約30%
  責任能力
約20%
約50%
       
・検察官 起訴
55%
 
  起訴猶予(心神耗弱)
15%
 
  不起訴(心神喪失)
12%
 
  その他の不起訴等
18%
 

これは前千葉県精神医療センター、現在静岡県立こころの医療センター院長の平田豊明先生が中心となって調べた起訴前の簡易鑑定に関する調査です。法務省から資料を得ることができ、おそらく初めての簡易鑑定に関する1年間の全数調査となりました。2000年には約2000件の簡易鑑定がなされています。後に何度も触れることになるでしょうが、精神科医の多くは、検察官に対して、起訴不起訴が恣意的にされているのではないか、起訴前と起訴後に2重基準があるのではないか、司法ですべきことをせずに精神科医療に押し付けているのではないか、などと批判的であると思います。私にも同様の思いがありました。ところが統計的に見ますと、検察官は簡易鑑定の結果にほぼ従っているのです。例えば簡易鑑定の結果が完全責任能力ではほぼ起訴し、責任無能力ならほぼ不起訴としているのです。限定責任能力の結果に対しては、起訴と起訴猶予とに分かれているのです。私たちは、検察官に対して恣意的だ、起訴便宜主義だと批判してきましたが、どうも実際には検察官は簡易鑑定の結果、判断にほぼ従っているようです。むしろ簡易鑑定書の内容に大きなばらつきがあり、私はこの方がより問題ではないかと思っています。
 次に図4です。

図4 起訴前嘱託鑑定(法務省資料より)
  起訴前嘱託鑑定数 鑑定人(実数)
99年
169件
111人
00年
145件
109人
01年
157件
115人
02年
162件
121人
03年
148件
112人

これは起訴前嘱託鑑定についての若干のデータです。ご存じのように起訴前嘱託鑑定は2ヶ月から3ヶ月をかけて、公判鑑定とほぼ同じ程度の面接、検査などをするものです。検察官が鑑定人を選び、裁判所に届けて鑑定の許可を得るという形になっています。形式的には裁判所の許可を得ているのですが、簡易鑑定でもそうですが検察官の意向にかなり影響されるかもしれません。このことは私の事例でも触れることになります。また話は逸れますが、面白いことに、公判鑑定では弁護側が供述調書を不同意とすれば鑑定人はまったく見ることはできないのですが、起訴前嘱託鑑定では検察官の持っている証拠はすべて見ることが可能だということです。警察官を含めて多数の調書を作りますが、その一部しか裁判に証拠として提出されていないことがよく分かります。図4にあるように、起訴前嘱託鑑定は年間に150件前後だということです。最近は少し増えているかもしれません。この起訴前嘱託鑑定をする鑑定人は、年間100人ほどで平均すると
1人年間1件程度をしたことになります。
 次に公判鑑定ですがその件数はよく分かりません、統計的なデータはないようです。統計があるとしても病理鑑定も含まれた数字のようです。どうも年間100件から150件くらいの公判鑑定ではないかという話を聞いたことがあります。しかし診断や判決などのデータはないようです。なお最近、大澤達哉先生の「鑑定人および裁判官の刑事責任能力判断に関わる要因の研究」(精神神経学雑誌.第109巻12号)という公判鑑定50例を分析した論文がでています。鑑定書や判決文の詳しい分析がありますので参照されたらよいと思います。それ以外には出版された個別事例の鑑定書があるくらいで、公判鑑定の全体像はまったくわからないのが現状です。

 

III.昭和59年最高裁決定とは何であったか?

最高裁決定の意味を考える前に、不可知論、可知論に触れなくてはいけないようです。長年に渡ってドイツそして日本で、不可知論と可知論という対立が続いてきたと言われています。よく分かっている訳ではありませんが私なりに簡単に説明しますと、精神鑑定の領域での不可知論とは、自由意思の有無について何人も不可能であることから、心理学的要素つまり善悪の弁識能力と行動の制御能力の判断はすることはできず、鑑定人ができるのは生物学的要素つまり精神医学的診断だけであるという考えです。そしてコンベンションつまり慣例に従って、統合失調症や躁うつ病などの内因性精神病は、原則として責任無能力とすべきであるという考えです。統合失調症は重篤な疾患であり、思考や行動の予測が困難であり、統合失調症の人に自由意思があったのかどうかとかなどはとても分かるはずがない、という考えだと思っています。私はこの不可知論を今になって振り返ってみますと、統合失調症は人格の核心が崩れてしまう、だから何をするか分からない、そして不治の病であるという疾病観がその背景に厳然としてあったのだろうと思います。不可知論は不治の病と不可分の考え方ではなかったのかと思っています。
 日本では、当時東京医科歯科大学教授であった中田修先生が不可知論の旗頭であり、司法精神医学の学説としては有力なものであったようです。しかし私は、日本の裁判、判例では不可知論、慣例が圧倒的な主流であったという時代はなかったのではないかと考えています。その根拠を挙げてみたいと思います。最高裁が今から15年ほど前に、昭和27年から平成元年までの精神鑑定の代表的な判例集を出版したことがあります。市販されたわけではないようですので、私もコピーしか持っていません。図5をご覧下さい。

図5 「責任能力に関する刑事裁判例集」(最高裁判所事務総局編、平成2年3月)
昭和27年10月〜平成元年11月までの判例 統合失調症 50例
 
昭和59年まで(37例)
昭和60年以降(13例)
完全責任
5例
2例
心神耗弱
10例
5例
心神喪失
21例
6例

統合失調症が50例あります。便宜的に最高裁決定の昭和59年で区切ってみますと、昭和27年から昭和59年のこの間に37例の統合失調症の判例が出ています。それ以降は13例です。昭和59年以前でも、5例は完全責任能力で、心神喪失が21例です。確かに心神喪失が多かったのですが、不可知論であれば完全責任能力はあり得ないわけです。ただ今から考えれば統合失調症の診断がちょっと怪しい例も含まれているようです。私が言いたいことは、不可知論と慣例にもとづいて司法精神医学者は統合失調症イコールほぼ責任無能力だと主張されるわけですけれども、実際の判例はその主張に従っていたわけではないという一つの証拠だと思います。
 先ほど言いました中田修先生は、1968年「精神分裂病の責任能力への一寄与」(精神医学.第10巻1号)のなかで、「判決を見ると、精神分裂病といえども症状の著しく高度な場合、犯行が幻覚、妄想などの病的体験に直接支配されている場合などのほかは、責任を認めるべきであるという考え方が裁判官の中には支配的にあるように思われる」と書いています。つまり司法精神医学者の主張する不可知論を裁判官が認めてくれない、幻覚や妄想がはっきりしていない場合には責任能力を認めようとする傾向があると批判しているわけです。
 また1975年に出版された『精神鑑定と裁判判断』(村松常雄、植村秀三共著、金原出版)は、なかなか面白い本です。出版された当時、さっそく洛南病院での勉強会で読みました。村松常雄先生は元名古屋大学医学部精神科教授であり、植村秀三先生は裁判官です。この本にもやはり不可知論に立つべきなのに実際の判例はそうではないということが繰り返し書かれています。精神分裂病、今の統合失調症の一例が割と詳しく書かれています。その精神鑑定例は、過去に殺人歴があり今回警官を殺害したという事件であり、地裁で2回の精神鑑定が行われ、責任能力ありということで死刑判決が出されました。高裁での3回目の精神鑑定を村松先生がして、「精神分裂病と精神遅滞があり、心神喪失」という結果を出しました。高裁の判決は懲役20年でした。つまり限定責任能力としたわけです。これに対して松村先生は、心神喪失であり無罪にすべきだとコメントを書いています。また裁判官である植村先生も同じように無罪にすべきとしたうえでさらに「裁判官には精神分裂病が責任能力に及ぼす影響を軽視する傾向がある」とコメントしています。ただしこの二人とも保安処分がないことは困ったことであると繰り返し述べています。この事例でも、保安処分があったなら、保安処分にすべき事例だとも書いています。
 また日本精神神経学会の総会で昭和53年から3年間続けて精神鑑定、刑事責任能力のシンポジウムが開かれたことがあります。立教大学法学部教授の小野田矩夫先生がシンポジストとして出て、「刑事責任能力論の現状と運用―我国における精神鑑定事件の分析―」(精神神経学雑誌.第82巻第4号)を発表しています。小野田先生は、昭和38年から45年の間の東京地裁での精神鑑定書と判決書を129例集めて分析しています。この期間の東京地裁の精神鑑定の大部分を集められたのではないかと思われます。いろいろと面白いことを述べています。まず裁判官は精神鑑定の結果をほぼ受け入れている、精神鑑定は非常に強い拘束力があるのだと指摘しています。次に、精神分裂病だから責任無能力というような鑑定書が多く、善悪の判断ができたかとか行為を制御できたかどうかといった心理学的要素についての考察はなきに等しい。覚せい剤でも心神喪失の判決がある。精神分裂病は129例中の18例であり、うち6例が心神喪失である。どうも幻覚妄想や作為体験などの関与があれば心神喪失になり、人格水準低下や感情鈍麻などは心神耗弱になる傾向がある、などを指摘しています。
 判決に影響を与えている疾病以外の要素としては、「精神障害の治癒困難性(精神病質?)」「前科前歴」「犯罪の重大性」「犯行の計画性」などがある。つまり精神鑑定書の結論以外に、裁判官はこのような要素を重視して判決を出している、と分析しています。そして小野田先生は鑑定を行う精神科医に、「経験事実的な意味での事理弁別抑止能力を基準に責任能力の有無・程度を決めてゆくべきであろう」、「心理的要素というものを事実的・経験科学的に確定する努力」が必要と提言しています。
 ここでもともとの話の出発点であった昭和59年最高裁決定にもどって考えてみたいと思います。この決定以前でも、裁判官は可知論に基づいたような判決も出していた。しかしこの決定は、やはり刑罰化の流れに弾みをつけたものであろうと思います。また不可知論、慣例は決定的な終焉を迎え、統合失調症イコール心神喪失ではないことをはっきりと述べたという意味で、刑事責任能力論の転換点に位置する重要な判決であるだろうと思っています。この決定以後は、心神喪失の裁判判決は著しく減少しています。ただ問題の一つは、起訴前には相変わらず心神喪失と心神耗弱が半分ぐらいといった検察官の判断が続いていることだと思われます。実体的には、検察官は簡易鑑定にほぼ拘束されて不起訴、起訴猶予を決めていることです。ここからは私の推測もありますが、どうも重大な犯罪以外の統合失調症は、検察官も簡易鑑定をする精神科医も、刑罰よりも治療を優先したほうがいいという考え方をしていると思われます。結果的に、考え方としては不可知論がまだ残っているとも言えます。すでに述べたことですが、私のように精神科病院に長く勤めている精神科医は、常々検察官の起訴便宜主義は問題だと考えてきました。起訴前には責任無能力に傾き精神科医療に押し付けてくるが、一方起訴すると裁判では責任を厳しく問う判決となる。責任能力に関する二重基準ではないかというふうに批判してきました。しかし今まで紹介してきましたように、どうも簡易鑑定をする精神科医に相当大きい責任があるのではないかと思われます。なおこの決定の起訴前の検察官の判断に与えた影響としては、起訴前嘱託鑑定等により起訴する事例をより厳密に選別するようになったのかなと思われる節もあります。
 ここで私はどうしても話しておきたいことがあります。やはり最高裁決定というのはそれなりの大きな背景があるはずだということです。一つは、精神科医の側に疾病観の変化が生じたことでしょう。統合失調症は不治の病ではなく治療可能と変わってきたと思います。二つは、1960年代から徐々に開放処遇そして地域処遇へと向かい、そして精神科病院は収容所あるいは保安施設的な役割を担わなくなりつつあります。精神科医療の側から、最高裁決定に影響し、後押しをしたとも言えるでしょう。他にも、例えば藤縄昭先生は、精神科医療が開放処遇、地域処遇へと変わってきたことは、同時に患者さんも市民的義務も負うべきという考え方もあり得ると書いておられます。また小さな変化でしょうが、大学にいる精神科医の先生方が精神鑑定をあまりしなくなりました。その理由はいろいろとあるのでしょうが、大学精神科教授のなかに精神病理学あるいは臨床的経験の豊富な教授が少なくなり、生物学的研究を主とする教授へと総入れ替えとなってきたことをあげることができるでしょう。多くの大学精神科医局では精神鑑定を精神科医の素養として重視しなくなっているのかもしれません。その結果、臨床現場の精神科医に精神鑑定の依頼がくるようになったと思われます。私が比較的多くの精神鑑定をするようになったのも、このような流れがあったからだろうと思っています。ただすでに述べましたが、臨床現場の精神科医は私を含めて現実に足をすくわれかねないと思っています。特に私のように措置入院などが比較的多く受け入れている府県立精神科病院などの精神科医達は、犯罪行為に対しては司法的な手続、もっとはっきりいえば刑罰は刑罰として受けてから精神科治療にきてほしいという考えを持っていることが少なくないようです。このことは簡易鑑定を含めて精神鑑定をするときに、有責という方向を強めるという影響を与えている可能性はあるかもしれません。あとは、犯罪被害者に光が当てられるようになったことです。そしてマスコミはもっぱら被害者感情、市民の処罰感情をあおる報道をしています。この風潮に、個々の精神科医が無縁でいることはなかなか難しいことだと思われます。この話の最後になりますが、先程触れましたように最高裁決定の数年前に、精神鑑定や責任能力を巡って3年間に渡って精神神経学会のシンポジウムが開かれました。このことは精神科医達が精神鑑定を巡って何か大きな変化の予兆を感じていたからかもしれないと私は思っています。

 

IV.精神鑑定事例

ここまでで大体前提のお話しをしました。次に3例の重大事件の精神鑑定をお示ししたいと思います。匿名性を保つために大幅に改変しています。

【 事例 I 】

最初は事例Iです。男性で、診断は統合失調症でした。逮捕されて起訴前嘱託鑑定がなされ、限定責任能力を示唆する鑑定書が出され、そして起訴をされたのです。地方裁判所において再度精神鑑定が行われることになり、私が鑑定を行い責任無能力という鑑定結果を出しました。 そして地方裁判所では無罪判決となりました。検察官は直ちに控訴しました。
 現病歴を簡単に紹介します。統合失調症を発病したのは、事件を起こす8〜9ヶ月ぐらい前だったようです。幻聴、被害妄想、注察妄想が始まりでした。当時の妄想対象は、具体的他者がいたわけであります。ところが事件の4ヶ月ぐらい前に、幻聴が活発化してきました。もともと大人しい性格だったのですが、事件の2〜3ヶ月前になりますと少し乱暴な行動がみられるようになり、私はここら辺で人格変化が始まったのではないかと思っています。外に向かって怒鳴ったり、扉を蹴ったりするようになりました。家族は、このころには精神科の病気じゃないかとはっきり感じ始めたようです。そして家族は精神科に相談に行きますが、本人が受診を拒否したためにそのままになってしまいました。
 事件の約2週間前に、急速に病状悪化が始まってきます。幻聴の主は、具体的他者から不特定他者あるいは架空の人物へと変わって行ったのでした。幻聴も単語であったのが、具体的な命令となってきたのです。幻聴については、裁判の大きな争点になるので少しふれておきます。幻聴はいろいろな命令をしてきました。幻聴に従ったこともありました。しかし全部が全部、幻聴の言う通りにしたわけじゃありません。命令に従わなかったこともあり、幻聴を聞こえないように回避するような対処行動もとっています。幻聴が聞こないようにと、CDで音楽をずっと聞いていたりしました。相当に苦しかったからでしょうが、家族の勧めに従って精神科を数回受診しています。幻聴は続き、さらに幻視も始まりました。霊魂に関する妄想だけでなく、架空の人物が恋人になってくれたという誇大的・救済願望的な妄想もありました。そして病感は急速に失われていきました。ただ仕事は、その事件当日もやっていました。このことが裁判でも問題となったと思われます。
 昭和59年最高裁決定にも、犯行前の生活状態がどうだったかというのがあります。事件を起こす少し前は、外見上はそれほど滅茶苦茶な状態ではなく、仕事ができているのです。私として若干残念に思うことは、事件の前に精神科での診察はわずか10分程度であり、もう少し丁寧にされるべきではかなかったということです。ただこれは事後になって言えることかもしれません。自分なら事件を防げたのかと問われれば、そうとは断言することはできません。
 事件前夜になりますと、病的体験がさらに強くなっていきます。突然身体の痛みを感じつまり被影響体験ですが、さらに非常な恐怖感をつのらせたようです。まったく眠らずに、仕事に行くことになりました。仕事はなんとかできたようです。裁判ではいろいろなことが問題となりましたが、可知論に立つ以上はやむを得ないということだろうと思います。「知人を殺せ」という幻聴があったが、その知人を殺そうとはしなかったのです。仕事を終わった直後に、「誰でもいいから殺せ」という声が聞こえてきたのです。幻聴は「人を殺すか、自殺するのか、殺されるのか、3つのうちどれか1つを選べ」と繰り返し聞こえてくるようになりました。本人は恐怖感がつのるなかで、人を殺すしかないと決心をするわけです。しかし幻聴は、その殺人の方法についての命令はしてこなかったのです。
 事件後の病状は悪化の一途を辿っています。起訴前嘱託鑑定は、事件後2か月目ぐらいにされています。診断は統合失調症です。この鑑定書には、少量の薬物療法などの治療により、幻覚や妄想は背景化しつつある、心理テストでも精神病的兆候は希薄になっている、と書かれています。ところがこの鑑定の時期に、本人が家族宛に手紙を出しています。それを読みますと、活溌な幻覚妄想がなお持続していることを伺わせます。私が公判鑑定をしたのは事件からすでに1年3か月も経過をしていました。このときは既に感情は平板化し、思考は貧困で、無気力、活発な幻聴と幻視、さらに荒唐無稽な妄想がみられるという状態になっておりました。つまり事件当時よりもさらに支離滅裂で荒唐無稽になっておりました。歴史上の人物、すでに死亡した俳優などの声が聞こえ、姿が見える、となっておりました。公判鑑定での心理検査、バウムテスト、ロールシャッハテスト、風景構成法などいずれも退行状態、自我境界の喪失、無意識衝動が統制不能などの病態水準が著しく悪化したことを示しています。
 2つの鑑定の争点は何かについて話を進めたいと思います。まず一致していることは、統合失調症の急性増悪期であったということです。動機については、2つの鑑定とも動機は幻聴であると一致しています。ところが不一致も少なくありません。第一には、陰性症状あるいは人格変化についてです。私は犯行時にすでに人格変化が始まっていたのだと考えています。しかし起訴前嘱託鑑定をされた先生は、私の鑑定書を批判して、拘禁反応あるいは拘禁着色であり薬剤性パーキンソンも加わり、陰性症状のように見えたに過ぎないという批判を公判の証言でなさっております。第二は、被害者の対象を選択したのだということです。知人を殺せという幻聴には従っていません。このことに注目し、起訴前嘱託鑑定をされた先生は「意思が部分的に残っていた」としております。第三に、殺人の手段は幻聴の指示ではなく本人が選んだということです。そして方法が合目的であったということです。これらをもって起訴前嘱託鑑定をされた先生は、「衝動性に支配された行為とは言い難い」、「合目的な行動」であったなどから、制御能力も残っていたとも判断されています。しかし私は第二と第三については、とても部分的な意思、合目的とは言えないと考えています。裁判官に納得してもらう書き方や証言ができたかどうか分かりませんが、結局急激に精神症状が悪化の一途を辿っているときであり、その病理は非常に重篤であることから、自由な意思が一部あるかないとかいう以前の問題であると考えているわけです。証言のときは、ちょっと極端な話ではありますが、幻覚妄想に支配されて人を傷つけようとしたときに包丁を使ったことをもって判断能力が残っている根拠ということになりかねない、という話もしたように思います。第四に、直前まで仕事をし、直後には謝罪し、取調べのときには重罰を恐れていたことについてです。起訴前嘱託鑑定をされた先生は「2重の見当識」であり「それなりに善悪を認識」していた現われであると証言しています。もちろん検察官はこれらもって公判鑑定は信用性が乏しいというふうに主張するわけです。
 結局、地方裁判所の判決は心神喪失であり無罪となりました。
 この事例を通しての感想を述べたいと思います。先ほど紹介しましたように、細かいことが問題となります。計画性があったのかどうか、被害者の対象選択性があったのかどうか、犯行中に合目的な行動をとっていたかどうか、など切りがないほどです。しかしこのような細部が争点にならないと結論は出ないようです。法廷での鑑定人の証言は、被害者の傍聴の中ですので、なかなかつらいものがあります。検察官は厳しい質問をしてきます。
 私は心神喪失であり無罪にすべきだと思っていましたが、被害者感情や起訴前嘱託鑑定の結果は限定責任能力でありますので、判決は心神耗弱になるのではないかと密かに思っていました。私はこの事例が限定責任能力で有罪になるとしたら、昭和59年の最高裁決定よりさらに心神喪失の幅が狭くなるのではないか危惧をしております。

 

【 事例 II 】

女性で、診断は統合失調症です。起訴前嘱託鑑定はされずに起訴され、私が公判鑑定をすることになりました。鑑定では心神耗弱という意見を出し、判決はその意見にそったものと思われます。心神耗弱つまり限定責任能力でしたが、検察官は完全責任能力、弁護人は量刑が不当ということで、直ちに高等裁判所へ控訴されました。
 現病歴ですが、事件の約3年前に発病しました。幻聴や被害妄想があり、自殺を図りました。精神科で外来治療を受け、比較的少量の薬で1、2ヶ月という短期間で表面的には落ち着きました。治療は中断したままで6ヶ月間くらい経過しました。時々被害妄想的なことを口にすることはありましたが、日常生活の破綻には至りませんでした。事件の2年ほど前に、最も重篤な精神症状が出現しました。
 幻聴、被害妄想、心気妄想、替玉妄想などです。偽者だと言って、自分の子供の首を絞めようとしました。他の家族に対しても、偽者だとして同様の攻撃的で衝動的な行動がみられました。天井に穴を開けたこともありました。襖に目張りをするなどしました。精神科病院に数ヶ月入院しました。発病当初から病的体験を隠そうとする傾向が顕著でしたので、どのような体験があったのかなかなか分からりずらかったようです。ただ入院中にも幻聴、被害妄想を伺わせる言動や衝動的な行動もありました。数ヶ月の入院治療にも関わらず、治療者側との間に情緒的な交流、感情的な疎通性はほとんど生まれなかったようです。
 退院しましたが間もなく外来は中断します。中断しても、家庭の日常生活は何とかできていました。ただ振り返れば、人格変化が進行していたと思われます。もともとの性格はもの静かで大人しいが頑張り屋であったのですが、次第に自分勝手なところが目立ってきました。同じ頃から被害念慮とも被害妄想ともとれる心配をしばしば口にするようになります。
 事件の1年前にも悪化したことがあります。事件の2年前よりも小さな悪化でした。夫に対する被害妄想があり、非常に攻撃的になり、突然の暴力がでるようになりました。このときも同じ精神科病院での外来治療を再開しました。少量の薬を飲むと短期間で衝動的で奇妙な行動は少なくなって、何とか日常生活は送れるようになりました。そしてまた外来は中断します。その後、被害妄想が強まっていきます。近隣に対して非常識な態度をとるようになりました。勝手な振る舞いを続けるものですから、近隣の人達に敬遠されるようになってきたようです。いずれにしろ被害妄想が段々強くなり、被害妄想の対象が特定されるようになっていきます。
 しかし事件の直前まで、家事などはこなして日常生活は破綻していません。ただ事件前日の夕方から、奇異な言動がみられるようになりました。夜はあまり眠れなかったようですが、事件の朝も家事はこなしています。事件の朝、被害妄想の対象を殺す決心をしたようです。
 殺害後、逃走と証拠隠滅のためにまとまった行動が出来ています。また、逮捕された際には、精神科治療を受けていると繰り返します。逮捕され数日後に、警察官に暴力振るいました。現実見当識が乏しいなと感じるのは、その後その警察官に何度も逃がしてくれと頼んだことです。
 ところが事件後約2ヶ月を経過した頃から、病状が徐々に悪化していきます。犯人は別にいるというような願望充足的な妄想が見られるようになっています。事件後5ヶ月目に急速に悪化します。拘置所内で、幻覚・妄想から興奮状態となります。以後、服を着たまま風呂に飛び込むなどの奇異な言動が続きます。食事をあまりしなくなって相当に痩せ、体重が相当に減ってしまいます。この時期に幻聴が活発化し、新たな願望充足的、誇大的で荒唐無稽な妄想が生まれてきたようです。拘置所内でも精神科医の診察も行われましたが、抗精神病薬の服用は拒否し続けます。
 精神鑑定が始まりました。公判も何度か傍聴しましたが、非常に奇妙な様子が続いていました。法廷内では、視線をキョロキョロさせたり、ぼんやりと眺めてみたり、瞬きしたり、眉をひそめたり、口を尖らせたり、ニヤッと笑ったり、うなずいたり、ため息をついたりもします。背伸びをしたり、立ち上がったり、腕組みしたり、机を叩いたりもします。被害者の家族の証言でもほとんど表情が変わりませんので、感情の動きもないという印象がありました。つまり表情だけでも、放心状態、無表情、一方で微笑んだり、暗い顔になったり、不安気な顔、険しい顔となるなど、コロコロと変化をして、非常に奇異な表情だと感じました。
 精神鑑定を始めました。最初は拘置所で面接をしようかと思っていました。ところが公判を傍聴していると、とてもじゃないが会話にならないだろうと判断しました。洛南病院に入院をさせ、薬物療法をしなければ鑑定ができないだろうと考えました。入院当初は、拒薬する、看護師に暴力を振るうなどが続きました。保護室内では、独語、まばたき、口を尖らすなどが見られました。一方女性看護師には「逃がしてくれ」、男性看護師には「結婚して」などと、場違いで非現実的なことを言いました。少し長い会話になると、ほとんど支離滅裂となり、言語新作もありました。そのうちに、幻聴や被害妄想を話すようになりました。大量の抗精神病薬を使いました。例えばオランザピン40mg/1日量を使いましたが、いっこうに良くなりません。結局、ハロペリドールを経口とデポ剤の合計で約25mg/1日量を使って、やっと攻撃性が減り少し穏やかとなりまとまった会話ができるようになりました。同時に奇妙な表情は減ってきました。幻聴の内容を具体的に話しするようになり、願望充足的、誇大的で、荒唐無稽な妄想が存在することも明らかになってきました。場にそぐわない、ひどく幼稚なところは続いていました。事件については、最初は強く否認をしていましたが、穏やかになるにつれて揺れるようになりました。鑑定の最後の段階では、犯行を認めるようになりました。しかし同時に願望充足的な妄想も持続していました。つまり事件に関して、二重見当識的な状態となりました。心理検査もいろいろ施行しましたが、統合失調症という診断を裏付けるものでした。
 まとめますと、発病したのは事件の約3年前です。幻聴、被害妄想、注察妄想などの症状でした。事件の約2年前に最も悪化し、事件の約1年前にもより小さな悪化がありました。事件直前は悪化の徴候が見られました。事件後は、いったん平穏になったが、数ヶ月後に悪化しそれ以降は悪化の一途を辿り、幻聴、被害妄想に加えて、願望充足的で誇大的で荒唐無稽な妄想が生じるようになった。このように何度か病勢悪化、シューブを繰り返すうちに人格変化、感情鈍麻、感情平板化などが徐々あるいは段階的に顕在化してきています。あまり使われなくなったシューブという言葉が一番ぴったりとくるようです。事件は病勢悪化に向かう直前のことであったと考えられます。犯行の心理としては、主に被害妄想であったと言わざるを得ないでしょう。統合失調症の被害妄想と人格変化の両方を媒介にしなければ事件はとても説明できないと考えています。事件を起こしたのは病勢悪化、シューブの直前であり、被害妄想がなかったら事件は起きなかったであろう。しかしある程度の計画性と準備のもとに実行されて、かつ犯罪であるという認識もあり、稚拙な方法であるけれども逃亡を図ろうとし、逮捕直後には精神病であるということで罪を逃れられるかもしれないという認識があったということです。鑑定時には、人格変化、陰性症状は更に顕著になっています。犯行したという認識と願望充足的な妄想の二重見当識の状態になっています。鑑定書の最後に、仮に抗精神病薬を中断して悪化すれば訴訟能力すらも失われるであろう、また長期的にみればいわゆる荒廃状態に向かう可能性が大であり、とりわけ拘禁施設内では更に病気の進行が強まる可能性があることなどを付記しました。これらを総合して心神耗弱、限定責任能力という精神鑑定の結論になったのです。
 この事例の感想を述べたいと思います。精神科医なら誰が診察しても、明らかな病気、統合失調症です。しかし完全責任能力でないという説明はなかなか難しいのです。生活能力、病状の重さ、計画性、犯行の様子、逃亡など一つ一つ検討し納得できる説明をしなければならないのです。あと一つは、恐らく30年前であれば、言い換えれば不可知論がなお影響力を保っていた時代であれば、私も心神喪失と結論づけた鑑定書だったかもしれません。おそらくそれが公判でも認められたのではないだろうか、という思いが強く残っております。

 

【 事例 III 】

若い男性で、診断は統合失調症です。事件は、数年間付合っていた女性を絞殺したことです。私が起訴前嘱託鑑定をすることになりました。現病歴としては、若くして幻聴、注察妄想、被害妄想、誇大妄想で発症しました。
 発病当初から、幻聴は悪口もあるが一方では褒める内容もあり、被害妄想もあるが誇大妄想もありました。1年間、精神科に通院し改善して就職もします。その後の約10年間の間は、病状は悪化したり軽快したりの繰り返しでした。家族が心配して時々精神科に連れて行くのですが、ごく短期で中断してしまいます。入院はしていません。仕事は転々とするのですが、生活費は自分で稼げるくらいはできます。事件につながっていくきっかけは、事件の約3年前に数人の男たちに殴られたことです。本人は損害賠償の訴えを起こすのです。その後、訴えた相手の人物が妄想対象の中心人物となっていくのです。この約3年間、精神症状が消失した時期はありませんが、人格水準は維持されておりました。被害者と知り合って約2年間同棲をします。何度か働きに行こうとしますが、被害妄想が強まり続きませんでした。そのうちに同棲相手を水商売で働かせて、生活費を得るようになります。一方では、被害妄想が体系化していきます。殴られた人物は、実は暴力団員であり、だから町の中や近隣でもあらゆる人達が自分に嫌がらせをしてくるのだと確信するようになりました。不特定な人が妄想対象になりますから、町の中でいきなり他人に暴力を振るって警察沙汰になったことや、近隣とのトラブルも起こすようになってくるのです。同棲相手に対しても、嫉妬妄想や被害妄想が生じてきました。同棲相手に対して、浮気の証拠を見つけたとして暴力を振るったり、体調が少し悪くなると食事に毒を盛られているのではないかと疑ったり、さらに妄想対象の中心人物である暴力団と同棲相手がグルになっているというような体系化した被害妄想ができあがってきました。同棲相手はその都度、必死に否定するので、許して仲直りをすることを繰り返していました。時に実家にも同棲相手を連れて帰るのですが、短期間であり家族は異常な言動は気づいていません。同棲相手は何度か精神科に行って欲しいと懇願しますが、拒否します。そうこうしているうちに、被害妄想がさらに強まってきます。町中の至るところで暴力団の手先がいて見張っている、住居も見張られている、しかも同棲相手が手引きしているのではないか、となってきます。首を絞めようとしたこともあります。同棲相手が両親に連絡し、両親が精神科クリニックに受診させましたが治療には乗りませんでした。他人に暴力を振るって警察に保護されたこともありましたが、治療に結び付けられませんでした。おそらく人格水準が維持されていますから、うまく言い逃れをしますので、素人からみて明らかにおかしいと感じられなくて、そのために治療に結びつかなかったのだろうと思われます。とうとう身近に迫ってきた被害妄想を逃れるために、同棲相手には黙って、1人で他県に行ってしまいます。そこで働こうとしたけれども、どこでも監視され、幻聴もあり、採用されても続きませんでした。所持金も尽きてきました。同棲相手を呼び出し落ち合いました。ホテルに入る前は殺すなどの計画はまったくなかったのです。部屋に入ったあと、同棲相手はやはり組織のメンバーではないかという疑いが強くなっていきます。ドアの外からは幻聴が聞こえ、まさにそこに刺客が来ていると感じ始めます。このような幻覚妄想が活発化するなかで、今にも襲われるという危機感のなかで、衝動的に同棲相手の首を両手で絞めて殺したのです。殺した直後には、何とか生き返らないかと必死に人工呼吸を試みました。そして自分から119番に電話して救急車を呼んでいます。
 鑑定中に妄想はさらに発展していきます。過去の出来事も追想妄想的に改変していきます。診断は、幻聴、妄想知覚、被影響体験、被害妄想、誇大妄想があり、妄想は体系化され、人格水準は保たれていることから、妄想型統合失調症で問題はないと思われます。ただ一見人格水準は保たれているが、感情鈍麻や無関心といった陰性症状の存在が疑われるということはありました。私はこの事例は起訴、裁判を受けるべきではないかと考えました。鑑定書を検察官に出しました。「妄想の確信度は100%ではない」、「犯行について、人格変化も影響している。一方では、人格水準は維持されている」、「犯罪という認識はある」、「直後に蘇生を試みている」などから、責任能力は「極めて著しく低下している」としました。つまり限りなく心神喪失に近いが、なお心神耗弱に止まっているという意見でした。但し書きとして、精神科治療をしなければ、裁判すらも妄想体系に組み込まれていくだろうというようなことも書きました。そして検察官には、恐らく今の裁判では責任無能力になるだろうがやはり裁判を含めた司法手続きをきちんと取るべきではないか、このまま措置入院になると治療的にも良くない、などと話しました。しかし検察官は、心神喪失が予想される事例の起訴はとてもできない、と言います。取り調べで被害妄想のことを聞いていますから、検察官の心証としても裁判は難しいだろうと感じていたのだろうと思います。私は、責任無能力になる可能性は高いが、法廷で証言もします、裁判なしに精神科医療に渡すというのは問題です、などの意見を述べました。私が精神鑑定をするようになりまだ数年しか経っていない時でした。結局、私は「完全に失われていたとするには多少躊躇」、「しかし現在の司法精神医学では通常心神喪失となると思われる」という一文を付け加えた鑑定書を出すことになりました。
 そして不起訴となり、洛南病院に措置入院となりました。入院して6ヶ月を経過しても精神症状はほとんど改善しませんでしたので、早期の退院は困難と考えて、郷里にある県立精神科病院に転院をしてもらいました。転院から約3年したときに県立精神科病院の主治医から、一向に良くならない、鑑定の経過や洛南病院での入院経過をもう一度詳しく教えて欲しいという連絡が入りました。3年以上入院治療を続けているにもかかわらず、閉鎖病棟のままであり、被害妄想についての病識は生まれず、殺さなければ暴力団に殺されていたはずであり刑期の決まっている刑務所が良かったと主張し、退院要求が非常に強いので治療関係が難しいということでした。
 この事例の感想です。私としては、一番納得しにくい形で終わった精神鑑定でありました。今でもこの事例はどうすれば良かったのかという思いが消えません。心神喪失、無罪になったとしてもやはり裁判をすべきとあくまでも主張すべきであったのではないかということです。一方では、起訴することは数年間に及ぶ拘置所での生活をすることであり、多分独居房であり、精神科医の診察や薬物療法にも大きな限界がありますので、統合失調症の人にとって余りにも過酷ということもまた間違いない現実であります。しかしなお、私はこの事例はきちんと公判を受けてから精神科病院に入院すれば、少し違った治療関係がつくれたのではないかという思いも消えません。

 

 

以上で3事例を終わります。私が過去に刑事精神鑑定をした殺人例のなかに、統合失調症は7例、妄想性障害は3例があります。統合失調症のうち、心神喪失の意見は5例、心神耗弱の意見は2例です。妄想性障害に3例はすべて心神耗弱の意見です。私はその都度、本や論文を読み、鑑定経験のある先輩から教えてもらいながら精神鑑定をやってきました。かなり自己流ではないかと思っています。振り返りますと、責任能力判断は非常に難しいという一言につきます。不可知値論か可知論という以前です。例えば、幻覚妄想に強く影響を受けた、あるいは幻覚妄想がなければこの犯罪は起こらなかったということは、割と簡単にかつあっさりと言うことができます。しかしどの程度影響されたかは非常に難しい。完全に支配されるというのはどういうことかという問題になってしまいます。幻聴があれば、すべての犯罪が責任無能力なのかという話になってきます。臨床医ならすぐわかるように、「殺せ」という幻聴があっても実行しない人は多数います。同じ人でも殺せと幻聴があっても、毎回実行しているわけじゃないのです。だから幻覚妄想があるからといっても、どういうことがあれば完全に支配されていると言えるのかは難しい。なぜ今回だけ幻聴や妄想に従って事件を起こしたのかという説明はとても難しい。緊張病性の強い興奮状態であれば、支配されていると言えるでしょうが、私の例でも2例だけです。幻覚妄想に対抗しうる人格がどの程度残っているのか、残っていなかったのか。人格変化はどの程度か。社会的能力、犯行の計画性、犯行の様子、その後の証拠隠滅や逃亡はどうであったかをみて、全体として能力はどの程度だったのかということになってきます。そうなりますと、非常に判断に迷ってしまいます。統合失調症でも、ある程度人格水準が維持されている、あるいは社会的能力が維持されているとなれば、なかなか心神喪失の意見は出しにくくなってきます。妄想性障害では社会的能力はほぼ維持されていますので、幻覚妄想の影響が非常に強いにも関わらず、心神喪失はあり得なくなってくるのではないでしょうか。心神喪失であると納得できるような説得がなかなか難しくなる。よりはっきり言えば、私自身が心神喪失であるという確信を持てなくなってしまうのです。
 しかし非常に大きな矛盾も生じてきます。例えば、精神科治療を続けていれば病状そのものはより軽くなっている訳ですから、治療中の人ほどより有責となる可能性があります。勝手に治療中断した人の方がより責任を問われないとなれば、変な話になってしまいます。また人格変化というのを客観的に示すことがなかなかできないという問題もあります。これらについて私も答えを持っているわけではありません。なかなか難しいというのが感想です。

 

V.医療観察法は責任主義・責任能力に影響するか?

そもそも刑事責任能力には絶対的な基準があったわけではありません。司法あるいは精神科医療のシステムが変化すれば、責任能力の考え方も変わるはずです。医療観察法は、今後、多分影響してくると思われます。よく知っているわけではありませんが、医療観察法のお手本の国であるイギリスでは、裁判で責任能力が争われることはほぼないと聞いています。
 現時点で医療観察法は影響しているかどうかです。私が知り得た範囲だけですが、平成19年10月ちょうど施行後2年3ヶ月経った時点での申し立ては857件です。87例はまだ鑑定中ですから、残りの処遇が決まっています。指定入院は441例で、約60%ぐらいです。指定通院は163人で、約20%弱です。不処遇やその他で約20%となっています。医療観察法・鑑定の意見とは異なった審判結果もあるようですが、ごく少数のようです。全体では、医療観察法・鑑定の意見に審判結果は拘束されていると見るべきと思っています。指定入院中の者は、平成19年7月現在で300人です。現在はもう少し増えているようです。300人の診断の内訳は、統合失調症が約90%を占め、他は躁うつ病、アルコール、その他などです。平成19年7月現在で、判定医が792人です。医療観察法・鑑定の意見、つまり指定入院、指定通院、あるいは不処遇か、という意見は、地域差がかなり著しいばらつきがあります。どう見てもそのばらつきは極端であり、幅が非常に大き過ぎるというのが現状です。
 話は変わりますが、ある鑑定を提出したあとの証言前に、検察官から是非一度話しをしたいと言われて会ったことがあります。いろいろな話があったのですが、なかでも印象深かったのは、「医療観察法では刑罰の代わりとはならない」「医療観察法は一般の人に認知もされていない」という検察官の発言です。重大犯罪の場合に責任無能力となれば、例え医療観察法で入院させることができても、とても被害者感情、市民感情を納得させることはできないと検察官は考えていると受け取りました。
 また、医療観察法の審判結果は今のところ刑罰の代替という機能ははたしていないと考えています。詳細はわかりませんが、殺人例でもかなりの不処遇や指定通院があるようです。殺人例のすべてが指定入院になっているわけではありません。私も含めて洛南病院で行った医療観察法・鑑定のうちに殺人の3例がありました。うち2例は不処遇の意見を出し、審判でも不処遇となりました。
 さらに医療観察法の解説を読めば、疾病性、治療可能性、再犯の具体的・現実的な可能性の3要件が必要だということです。このうちの1つでも欠けていれば医療観察法の医療の対象にはならないことになります。さらに言えば、指定入院中でも3要件の1つでも欠くことになれば医療の対象からは外れます。また現実の医療観察法・指定入院病棟は、保安施設とほど遠い実体にあると私は感じています。見学する機会が何度かありましたが、離院や自傷他害を防ぐためのハード面の厳重さはあるものの、病棟内は治療的な場という印象を受けたのは間違いありません。
 つまり現時点では、医療観察法は刑事における責任能力に大きな影響は与えていないであろうと思っています。医療観察法・指定入院病棟はその量的確保が困難な現状であります。保安施設的な機能も持ち合わせていないのです。しかし将来医療観察法が保安施設的な運用がなされるようになれば、責任能力の考え方は変わることになり、この20年30年続いてきた刑罰化の流れが変わると思われます。

 

VI.裁判員制度は責任主義・責任能力論に影響するか?

裁判員制度が来年の平成21年春から始まります。前提として、裁判員制度は今のところは地方裁判所だけであり、高等裁判所ではありません。次に何度か新聞報道されていますが、すでに20箇所ぐらいで、同じ精神鑑定書を使って裁判員制度の模擬裁判が行われています。ところが同じ精神鑑定書を使い、求刑は懲役12年にもかかわらず、その裁判結果は無罪から懲役14年までと大きくばらついています。京都地方裁判所の模擬裁判ではなぜか、求刑より長い懲役14年という結果になりました。しかも今回の模擬裁判の裁判員は、ご存知のようにサラリーマンなどが選ばれたようです。社会的な生活状況や知的水準は平均あるいは平均以上の人達であり社会的な出来事にもある程度以上の理解を持っているはずの人達が参加した裁判員制度でこれほどの大きいばらつきがあるとはどう考えればよいのでしょうか。
 裁判員制度の裁判は、1年間で約3,500件ぐらいだろうと言われています。そのなかで、責任能力が問題とされて精神鑑定が行われる数は、おそらく100件から150件ぐらいになるのではないでしょうか。裁判員制度全体から見れば、わずかなもの、小さなものです。鑑定人になれば、今まで書いていたような非常に長い鑑定書は不要になるかもしれません。あるいは今まで通りの長い鑑定書と同時に10枚前後の短いサマリーを作るということになるかもしれません。仮に地方裁判所では短いサマリーのような鑑定書あるいは証言が主となれば、控訴されたときには高等裁判所で再び長々とした期間をかけて長い詳細な鑑定書を作成するということになるかもしれない。いずれにしても精神鑑定は今まで通りのやり方というわけにはいかない、少々やりにくいなあと思っています。さらに、私が事例のなかで話しましたように法廷で証言し、裁判官、検察官、あるいは弁護人に責任能力について理解してもらうのはなかなか難しいものです。その上に裁判員が加わると、非常に難しくなるのではないかと危惧しています。
 では裁判員達つまり一般の人達は刑事責任能力をどう考えるのだろうかということです。私が鑑定したなかで、被害者の家族で「精神疾患によって自分の子供が殺されたのではない」、「殺したのはAさんで、病気が子供を殺したのではない」という意味のことを証言した方がいました。これは非常に重い言葉だろうと思います。このような証言があれば、裁判員は感情、情緒のレベルで相当に動かされるのではないでしょうか。
 私は、おそらく裁判員制度は精神障害者の刑罰化を促進する方向に働くであろうと考えています。

 

VII.まとめ

まとめに入ります。
 第一に1970年代から過去20年30年をかけて、刑事裁判では重大な犯罪をおかした精神障害者には精神科医療よりも刑罰を与えるという流れがずっと続いてきています。現在もその流れにあると思います。その背景として大きいのは、精神科病院が保安施設的な役割を担わなくなったことをあげるべきでしょう。かつて精神科病院が持っていた保安施設的機能は、すでに失われてしまいました。
 次に鑑定人達は、不可知論から可知論へとその軸足を移してきました。それに昭和59年の最高裁決定が、可知論、刑罰化への方向を決定的に加速させたものと思います。
 第二に、現時点では医療観察法は刑事責任能力論にほとんど影響を与えていないように見えます。指定入院病棟の量的確保は非常に困難な状況にあり、どう考えても制度が維持できるかどうかの瀬戸際であると思います。また現在の指定入院病棟は、かなり治療的な色彩が強いように思います。保安施設とは成り得ていないのです。
 第三に、裁判員制度は重大な犯罪をおかした精神障害者の刑罰化を促進するであろうと考えています。
 第四に、マスコミ等の報道の問題が大きいと思われます。特にテレビは、被害者側の発言の一部だけを繰り返して報道します。市民の処罰感情を煽る方向にしか働いていないようです。今後もこの状況は変わらないと思われます。
 従って、私はまだ当分の間は刑罰化の流れというのは続くと思っています。また事例I、事例IIは、高等裁判所ではより有責の判決が出されるかもしれないと危惧しております。もしそうなれば、統合失調症の責任無能力の幅は、昭和59年最高裁判決よりもさらに狭くなってしまいます。
 繰り返しになりますが、刑事責任能力論はやはり司法や精神科医療における処遇システムにより影響されてくることは間違いありません。絶対的な基準というのはないのです。少し長期的に見れば、医療観察法が保安施設的な運用の方向、例えば殺人例のほぼすべてが指定入院となりかつ相当長期の入院期間となれば、もしかしたら裁判における精神障害者の刑罰化の流れは逆転するかもしれないとも思っています。
 最後にですが精神鑑定というのは、簡易鑑定であれ、起訴前嘱託鑑定であれ、公判鑑定であれ、また医療観察法・鑑定でもすべて、起訴あるいは不起訴、責任能力、指定入院か否かなどに関して、事実上の強い拘束力を持っています。このことについて無自覚ではいけないと思っています。この考え方でいいのだろうかといつも自問しながら精神鑑定をしていくべきでしょう。
 以上で終わります。どうもご静聴ありがとうございました。

 

出典:司法精神医学講演会記録「刑事責任能力判断の新たな動向」


ページの先頭に戻る

トップページに戻る

トップページに戻る メールマガジン登録