医療観察法.NET

『心神喪失者等医療観察法を考える』
(第4回 日本臨床心理学会関東委員会報告)3

         出典 臨床心理学研究44巻2号,2006.9


1 <発 題>    心神喪失等医療観察法を社会(史/学)的視点から読む 山岸竜治

2 <指定討論>   心神喪失者等医療観察法を廃止へ 山本眞理
3 <フリートーク報告> 目加田敏浩

 

フリートーク報告

目加田敏浩(済生会宇都宮病院)

 

昨年、大阪で開催された第41回日本臨床心理学会大会の総会の席上、会員の方から「心神喪失者等医療観察法(以下・「医療観察法」)について学会として取り組んでほしい」という要望がありました。運営委員会では医療観察法について凍結・廃止に向けて取り組んでいくと確認しました。そして当学会関東委員会でこの問題について議論する場を設けました。私は第4回関東委員会のコーディネーターを務めさせて頂きました。医療観察法の問題点等については、前出のとおり、山岸さんと山本さんの発題、指定討論と、医療観察法の問題点について早くから指摘している藤本さんの司会で、詳細にお話し頂くことが出来ました。発題、指定討論の最中もしばしば議論が起こり、後半は従来どおりフリートークが行われ、必ずしも議論が焦点化されたとはいえないものの活発な議論がなされました。ここでは幾つか論点に絞って報告します。

 

1.「事件」と「ヒト」を「闇から闇」へと追いやる医療観察法

 従来、犯罪者は裁判を受け、刑罰は刑法の条文に従って判決がなされます。しかし、医療観察法は、犯した者の「資質」を問う「行為者主義」(=保安処分)です。裁判も行われません。そして「精神障害者」のみならず「精神障害の疑い」ということで医療観察法が適用される危険な状況が起こっているということが分ち合われました。そして、そういうこと自体が非常に差別的であると多くの参加者から声が上がりました。

また、「犯罪」というものをどう捉えていくかという問題が根底にあるのではないか、と語られました。例えば、権力にとって都合の悪い「犯罪者」、昔でいう政治犯、思想犯、極論すれば誰だってこの法律が適応される危険性などです。「事件」(ではないかもしれない案件)を起こした者を単純に「病気」ということで済ませてしまい、事を明かにしない、「ご都合主義」的な面があるのではないか、といった意見もあがりました。「犯罪」と「病気」が関係するのかという重要な事柄も、本来事件をつまびらかにしていく審判の中で、逆にうやむやになっていくのではないかといった危惧も語られました。

この法律は「遡り適用」というのがあり、法律の常識を覆したといわれていることが語られました。事件が施行前でも適応されるということであり、起訴猶予になったものを蒸し返すことも可能。施行前に対象行為を行ったものであっても適用するという条文がついており、基本的人権を犯しており、憲法違反も疑われ、法律としても非常に問題があると語られました。このことに日本弁護士連合会も関心をもっているとのことでした。

 

2.政治と業界団体の関係−脱施設化に逆行する医療観察法−

法成立の背景には、日本精神科病院協会など医療従事者団体が以前から主張している、「処遇困難者」対策ともリンクしているという指摘がありました。議論の中では、「ある論文によると、『処遇困難者』と触法精神障害者とは2割しか一致していない」ということが例として紹介されましたが、院内・獄中での暴力行為によって施設側が警察に通報しても、医療観察法の対象になり、「処遇困難者」への対策はもうすでに始まっているということが話し合われました。そしてその中には、かつて、日本精神神経学会が「治療の対象ではない」とした、「人格障害者」(精神病質者)も含まれているということです。「ごく一部の触法精神障害者のために社会復帰が妨げられている。触法精神障害者対策をしてほしい」という医療従事者の主張の背景にはこのような事情もあるということです。また、知的障害者の措置入院は受け皿がないために軽犯罪(無銭飲食等)で保護、起訴されても不起訴処分となり、精神保健福祉法に基づく通報がされているケースが多く、受刑者もまた同じ状況であり、同じく医療観察法に対象になり得ると話されました。つまり、ますます隔離収容的処遇が強化されているということです。また、医療観察法に関わる施設整備に資金がかかり、脱施設化を目指しているはずの厚生労働省の社会復帰施設への予算が削られおり予算の収奪が起こっていることも指摘されました。

イタリアで精神病院を全廃したことは有名です。では日本ではなぜ脱施設化が進まないのか、といったことにも議論はつながりました。精神医療を主として医療を担っていたので施策の変更が可能だった国もある一方で、オランダでは全て民間施設で賄っており、精神医療の歴史性や国民のメンタリティにも左右されることが語られました。日本では戦後、精神医療は主として民間精神病院が担った。業界団体の意向を反映しない施策変更は難しい。業界団体からは多額の政治献金もなされており共通の利害に叶うことでなければ変更しないとも語られました。一方で、日本は統制経済で官庁の力は強く、国民皆保険制度もある。本気で(施策変更を)やろうと思えばやれたはずではないかとの異論も語られました。

 

3.あるエピソードを通じて

ある参加者の方からこういうお話しがありました。

「(後で分かったことだが)精神障害者による、ある事件を目の当たりにした。警察からは近隣住人にはなんの説明もなかった。事情が分からず疑心暗鬼になったり、落ち着かなかった。この経験を通して、仮に精神障害について『理解してほしい』といわれても近隣から見れば、安心できるなんの根拠もなく恐怖だけが残った、といわざるを得ない。近隣住民へのなんらかのケアがほしい。そういう過程で『理解』が進むのではないか?」

障害者の側からだけでなく、地域から見たらどうなのかという視点は難しい問題があるように思われます。例えとしてあげられたことに、浦河べてるの家の方が施設について自治会のヒトたちへの説明会で話したことをきっかけに疎通がとれるようになったケースもあることが示されました。べてるの家の方は「地域のヒトから見れば共同住宅が出来て精神障害者が来るときいたら、私も怖いですよ」といったということです。べてるの家の取り組みだけではなく、精神障害者は自らを語る風潮が強くなっているようです。当事者自身がそういった形で社会参加することも変わっていくことの大きな原動力になるだろうと、語られました。また、当然のことながら、精神保健福祉従事者が中立的な立場であいだをつないでいくことも必要です。

精神障害者であるヒトが起こした事件とそうでないヒトが起こした事件でどうして違ったのか。病気でやったことだから、ということで裁判にもならない。密室化していく。それでは「精神障害者」への理解は深まらないのではないでしょうか?事情が理解できていれば、もうちょっと違ったのではないか、という思いがある、とその方はおっしゃいました。それに対して、「『事件』を分かるということはどういうことなのか?新聞、TVで報道された。あるいは記事にもならない。そういったことがある中で、本当に『分かる』とはどういうことなのだろうか?」という問い返しがありました。また、「不安を抱くのは警察に対してではないか?もちろん精神障害者への偏見はあるだろうが、普通の事件だったら警察が説明した、しかし精神障害者では説明がなかった。それは警察の問題ではないか?事件を起こした障害者の罪の問題はある。しかし、今の件は説明がなかった、警察の対応が問題ではないか?」という声もありました。

ヒトがヒトを裁くことが難しいようにヒトとヒトが関係性を結んでいくこともおよそ困難なことです。「異常と正常の区分けは非常に曖昧である。社会生活に支障を来たすか否かという点があえていえば問題だろう。そういった状況に対してカウンセリングなどの一対一の治療構造が果たして有効なのだろうか?地域共同体が壊れた現在では、『私』が一人で生きていかなければならない状況もある。そういう苦しみがある。他者との関係をどう作っていくのか、それも課題である」と参加者のお一人はおっしゃいました。このようにして声をあげていくこと、議論していくことは大切なのではないか?つまびらかにしていくことにつながるのではないかという意見も出されました。

 

4.差別・偏見と人権意識

ある行政出身者からはこのような話がされました。

「精神保健福祉法にはきれいな言葉が書かれているが実態は違う。措置入院の鑑定にも立会い搬送もしたがひどいことをしたという思いが強い。差別、偏見が非常に強い。行政にはそういったことへの疑問がないように思える。基本的に差別意識を解消しないまま、スケープゴートを作っていく。そうしていかないと行政のまとまりがつかなくなっていく。差別の構造が社会統制に役立っている。これが日本の現状なのではないか?」

これに対して、例えば、血液製剤によるHIV/AIDS訴訟の事例、らい予防法の廃止運動の事例などが語られ、「行政の中でそのような状態だから、精神障害について、それだけやろうという気がないと思う。また、マスコミが恣意的に精神障害者の事件をセンセーショナルに取り上げる現状では、手柄にならないのでは?」といった意見が出されました。

先のイタリアもスペインも反ファシズム運動からはじまっています。スペインではシャドウキャビネットの時代から精神障害者解放を目指した事例が語られ、「人民による人民のための」革命による共和制の獲得、人権意識の高揚といった歴史性、宗教、国民性、文化性も関係している、と語られました。

差別・偏見ということがあって、医療観察法という法律に書かれていること、すなわち裁判を受けられない、特別な処遇がされていくこと等が「差別」、と指摘されました。その上で、「(「3・あるエピソードを通じて」で提示された)問題は『偏見』に関わることではないかと思う。精神障害者が関わる事件記事が増えていけば、『偏見』、精神障害者は危険ということになっていくだろう。報道の在り方にも関わっていく。被害者に残ったのは『恐怖』と『偏見』だけ。これは差別と偏見につながるだろうと思う。人権意識を強めないで、『精神障害者は怖い』ということになるだろう。一体どういうふうにヒトとヒトがつながる日常があればいいのだろうか?」という重要な問い返しがありました。

それに対して、「地域共同体が壊れ、医療者・役人を中心としたヒエラルキーの中でそういった問題があることを意識した上で、制度的なものとしてなんとかしていこうとして医療観察法が出てきたのではないか?」と、医療観察法が成立した背景について語られました。つまり、「コミュニティとは反対の方向で医療観察法が出てきたということ。行為者の資質を問う、つまり精神障害者は危険だからという形で、コミュニティから外して、安心だねという状態に一役かっているのが医療観察法。それではダメなので他の方法を考えていきたい。人権というのはすごくいい言葉ではあるけれど、理解をしろといわれてもなかなかできない。そこで、『ここで』、どういう話が出来るのだろうか?」

議論はその大きな問いを残したまま終了しました。これからが始まりといった