医療観察法.NET

はじめての意見広告

「心神喪失者等医療観察法案」をめぐって

菊池 香
毎日新聞東京本社 出版局新雑誌編集部

5月24日土曜日、夜―。
 私は、布団に入ったもののろくに眠れずにいた。意見広告
これほど停電を恐れた時もなかったかもしれない。輪転機が止まったら、エライこっちゃ。とにかく明日の朝も無事新聞が届きますように……。
 実はこのころ、広告主の代表、精神科医のT先生も落ち着かず、アルコールの力を拝借していたそう。同じく弁護士さんやウェブデザイナーの方も、募金賛同者およそ500人分の名前をホームページに打ち込むため、夜を徹しての作業をしていた。
 そして迎えた25日の朝―。
 確かに載っている! 1ページの意見広告。日本の精神科医療の現実を訴えた、おそらくははじめての意見広告だ。
 明日からはまた参議院で審議が始まる。それまでに1人でも多くの国会議員に見てもらえたら。
 まるで新聞紙が生き物のようにいとおしい。はじめてそんなことを思った。

 

今年の春、有事関連法案の報道が世間をにぎわす影で、ひとつの法案が国会で審議されていた。
 「心神喪失者等医療観察法案」
 あまり話題にのぼることもなく昨年12月には衆議院で強行採決、今年からは参議院で継続審議されていた。
 この法案は、殺人や放火など重大な罪を犯した心神喪失者や、心神衰弱で不起訴処分や無罪判決になった人などに対し、精神科医と裁判官がその人に″再犯のおそれ″があると判定した場合、無期限の強制入院や5年以内の通院を課すことができる、というものだ。
 一昨年の池田小学校乱入殺傷事件の容疑者に精神科の入院歴があったことで急速に浮上した法案だが、被害者の方の痛みに思いをはせる一方で、私は何か座りの悪い思いを抱いていた。
 そもそもこれが精神科ではなく内科や外科への入院歴だったら、これほど大きく報道されただろうか―。
 そもそも容疑者は本当に精神障害者だったのだろうか。
 そもそも″再犯のおそれ″など本当に判断できるのだろうか―。
 そもそも精神障害者の犯罪検挙数は極端に少ないのに、隔離収容を障害者に限って実施するのは、「らい予防法」に似た不当な差別なのではないのだろうか―。
 私の中に様々な疑問が渦巻いた。
 これを機に、私は集会などを通じ障害者の人たちと交流を持つようになる。そこで始めて、事件の報道から偏見が助長され、外を歩くことすらできなくなった多くの障害者がいた事を知った。
 同時に先進諸国が地域の医療体制を充実させ、入院より通院を主とする開放医療に向かうなか、患者を病院に「長く閉じ込める」日本の精神科医療が世界の潮流とは明らかに逆行していることも。
 日本には、精神病院に入院している人が約33万人いる。そのうち約半数が鍵のかかった閉鎖病棟にいて、さらには5年以上も病院から出られない、という。
 何とかこの現実を知らせなくては。あふれ出るものが止められなくなった時、私は1冊の企画書を書き上げていた。
 「世界一 精神障害者を隔離する国ニッポン 〜ストップ! 心神喪失者等医療観察法案〜」

 

わが社ではこの問題を積極的に報道をしてきたし、社説でも法案の問題点に言及してきた。しかし記事ではどうしても大きさに限りがある。これが全面広告なら強く訴えられるのに……。そう思ったのがひとつのきかっけだ。
 しかし、広告主がついているわけではない。弁護士会や医師会などを想定してはいたが保証はなかった。それが無理なら署名の度に1人1000円ずつでもカンパしてもらって……。そんな目算もあったが、手間と時間は覚悟する必要がある。
 そして、もうひとつの関門は広告局内の了解をとることだった。会議にあげても活発な意見が出ない。つまりは、あまり知られていないのだ。「これは無理だよ」と言う先輩の声も聞こえてくる。
 そんな時、ただ1人背中を押してくれた上司、S次長がいた。
 「とにかく関係者の方に一度会いに行け。あとは弁護士会の会長さんでも誰でも私が会うから」
 参議院へ提出した反対署名活動にも協力をしてくれたひとだった。それで一気に弾みがついた。

 

私が精神科医のT先生を京都に訪ねたのは5月2日のことだ。その数日前ある弁護士会からたらい回しにされた上、アポ取りもできない始末だったので不安もあった。が、先生は本紙で統合失調症のコラムを連載していたこともある。教会をモチーフにした明るい診療所の診察室で、私は企画書を渡し思いのたけを語った。
 先生は初対面の私の話をじっと聞いてくれた。そしてこう言った。「実はやりたいって仲間と話してはいたんです。でも、どうしていいか分からなくて。全国版1ページならいくらかかるのですか?」
 いきなりの好感触に一瞬、返答に詰まった。話がそこまで進展するとは思わず、うっかり料金を考えてこなかったのだ。
 私はしばらくの間、口をつぐんだ。
 〈精神障害者への差別は私たちマスコミが助長してきたものかもしれない。そのことを思えば、無料で提供してもいいくらいでは〉
 私は思いきった料金を提示した。
 全くの独断。次長に叱られるかもしれない。
 「分かりました。それなら何とかなるかもしれません。早速、仲間に相談してみます」
 つい、椅子から転げ落ちそうになった。「とにかく国会会期が6月18日までだから、それまでに強行採決されてしまう可能性が高い。どうしても5月中に載せたいんです」
 驚きの後には、一抹の不安―。そんな急にお金が集まるのだろうか? しかも法案に対する考えがまちまちのため、弁護士会などの団体や企業からはおそらくまとまったお金は集まらない、という。ただ、個人カンパだけがたよりだ。
 2日後には先生から連絡がきた。「とにかくやりましょう。お金は2週間で何とか集めてみます」
 5月6日には先生が振込口座を設定し、カンパの呼びかけ文をホームページ上に掲載。初めてお会いして4日後のことだった。
 私はどこか半信半疑のままだった。しかし、時間はない。
 国会審議と募金の状況をにらみつつ、とにかく強行採決される前に掲載しなければ。様々なデザイン案をつくる一方で、広告に載せるデータや関係者からのメッセージも着々と集まっていく。
 精神病院の鉄格子の窓の図を紙面上部に置き、
「閉じ込めないで!もうこれ以上」
の一文。コピーはストレートに
「私たちは『心神喪失者等医療観察法案』に反対します。私たちは充実した精神科医療と福祉の向上を求めます」

 医療法特例による医師や看護士の少なさなど日本の貧しい精神科医療の現実を訴え、精神障害者の犯罪検挙数がいかに少ないか、といったデータを盛り込む。
 そうこうしている間に募金も集まっていった。一口500円からだったが、目標額は呼びかけから6日目の5月12日には見えてきた。
 これにはさすがの先生も私も驚くばかり。もう引き返すことはできなくなった。それでも私は半分信じられない気持ちで、日々大阪と京都を往復していた。参考人として国会答弁をした先生の帰りを京都駅で待ったこともある。
 そんなある日のこと、S次長が言った。協力者の一人、O弁護士さんに会った後、京都の街中で―。「もし法案が廃案になったら入院させられそうな人が1人でも外に出られるかもしれない。そうしたら、ひとつの広告が1人の人生を変えることになる……」と。
 ふと立ち止まり、S次長を見た。心なしか目が赤い。泣いていた。
 確かにひとつの広告がたった一人の人生を変えることはあるかもしれない。そして、たった一人の人生を変えることはあるかもしれない。そして、たった一人の人生を変えるということは、国のあり方を変えることにもなるのだ。
 私が泣けたのは、翌日になってからのこと。通勤中の自転車にまたがって、片手で傘をさしたまま、〈まだアカン、泣くのは早い〉と思いつつ、涙が止まらなかった。

 

それからは昼夜を問わず、先生、弁護士さん、デザイナーさん、私が一丸となった。そしてでき上がったのが、史上初の意見広告。紙面の増刷は各地でビラまきされ、国会議員の手にも渡ったという。
 改めて一人ひとりの存在の重さ、確かさを教えられた企画だった。
 私の背中を押してくれた上司がいて、私の思いを実行してくれた先生や弁護士さんがいて、その呼びかけに共鳴してくれた500人もの人がいて……。その一人ひとりをつなぐ″媒介″になれたことは、新聞社の一員として何よりの喜びだ。
 ただ1つ残念だったのは、広告紙面にアーティスト・Iさんが撮影した″精神病院の窓″を転載できなかったことだ。
 展覧会で初めてその作品を見た時、体が震えるほどの衝撃を受けた。いつか仕事が出来たら、と夢見ていた方だ。
 Iさん自身は趣旨に賛同してくれたが、撮影した病院の許可が出なかった。その病院が法案に反対というわけではなかったからだ。
 もしうまくいっていたら、私は自分の思いを寸分なく具現できた喜びで、また泣いていただろう。
 ただしそれは、自転車の上で流したものと同じ、自分に陶酔するだけの涙だ。
 それほど日本の精神科医療をめぐる問題は難しい。思い通りにならなかったことで、私はこの問題をそこで終わりにせずに済んだのだ。
 審議は明日も続く―。
 「今度はシンポジウムをしませんか?」と先生が言った。
 私は即座に「お願いします!」と答えた。
 本当は、そんな必要がない世の中が来ることを願いつつ。

 

菊池 香(毎日新聞東京本社 出版局新雑誌編集部
1969年埼玉県生まれ。92年毎日新聞社に入社。東京本社広告連絡部、企画推進部、広告第2部、大阪本社広告局第1広告部を経て、2003年から現職。

 

関連リンク 医療観察法案反対意見広告を出す会のホームページ

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